21世紀の縄文人を目指す男の記録


by jhomonjin
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カテゴリ:自然農法( 7 )

縄文カヌーがらみで尋常でない忙しさになってきた。
また去年の暮れから続く二隻目縄文カヌー「明星丸」の伐採から作製、ひび割れ対策、高浪の池搬入、アウトリガー作りなどの息つく間も無い半年間の疲労の蓄積もちょっと尋常ではない。
昨日まで二週間も米の飯が食えなかったし、肉・魚の類は匂いを嗅ぐだけで吐き気がした。
だから主食は果物、フランスパン、麺類をほんのちょっとだけ。
あと一月で上越までの25キロ航海だ。
疲労の回復に努めたいが、やることは山積みになっている。
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田植え直前の大麦。緑肥として植えて3年目だが、徐々に育ちが良くなってきた。肥料は入れてないので、去年の今頃は白っぽくて頼りない状態だったが、今年は太くて色づきもいい。もっと播種時期を早くすれば田植え前に収穫できるかも。


ちょっと遅いけど、今月から整体の流儀に従って禁糖を始める。
禁糖とは梅雨入り前の二週間の砂糖・コーヒー・アルコール・化学調味料抜きの食事スタイルのことである。味醂やハチミツも駄目。
このことで色んな意味での感受性を「素」に戻すという意味がある。
現代の日本人が摂取する砂糖の量は、一昔前までだったら考えられないほど多いだろう。
つまり庶民が砂糖を摂らなかった江戸時代中期以前の日本人に較べたら、素材(外的世界)への味(感受性)に対して甘ったるく志向されて(素直じゃなくなって)きているということ。
妙に過敏だったり鈍感だったり。
戦前のアイヌの食事は、塩っ気だって少なかったたらしい。
江戸時代中期の信州の秋山郷では、塩だって貴重品で味噌汁も塩っ気がなかったと「秋山紀行」に記録されている。
無論、禁糖は身体だってリセットされて梅雨が過ごしやすくなるが、ただ断食のように「食べるOR食べない」という二原論的でないところがミソでもある。
糸魚川では砂糖抜きのフランスパンは売っていないので、ホームベーカリーも買った。
この二週間は店で買った惣菜や外食は駄目だ。
ていうか、自分で作った料理以外は全部駄目だね。
整体仲間にはこれでは喰えるものが無いと途方にくれる人や、我慢が辛いと言う人が多いけど、俺にとってはコーヒー以外はどうってことがない食事だ。
梅雨が近ずくと自然とタバコだって吸いたくなくなるし、甘い物も食べたくなくなるから不思議だ。
だからこの際、上越の航海が終わるまで禁煙だってしちゃうことにした。
おうし、気合を入れて疲労回復に励むケン!と激しく決意する。(ここ笑う処です)

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友人のイギリス人マットから譲ってもらった赤米から育てた苗。根が農協の苗と較べると別の植物かという位に極太で長く育ってくれた。プロの第一君は何度も感心していた。他に自家採種したコシヒカリの苗もある。

さて、今年の田植えは去年の反省から不耕起の田んぼには育苗の段階から自分でやって、根が太くて丈夫な苗で田植えすることにしていた。
不耕起の田んぼでは、農協のヒョロヒョロ苗だと三割くらいは活着せずに枯れてしまう苗が続出していたのだ。例えれば、箱入り娘のお嬢さんを山の中に置き去りして、今後は自給自足しろという感じなんだろう。
これでは後から補植に追われるし、その間にも生育にバラツキが出て困ってしまうのだ。
だからどんなに忙がしくて疲れていても、朝晩の育苗状態のチェックと面倒見を欠かさなかった。

ところがここの処の忙しさと半病人状態から、今年の田植えを諦めるかどうかの瀬戸際に追い込まれていた。手塩にかけて育てた苗を枯らしてしまうのは身を切られるように切ない。
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右が第一君で左が藤巻さん。田植えといっても慣行農法の水田とはまったく風景が違う。無農薬・不耕起での自然農には、慣行農法から切替えて三年目で最悪になるというのジンクスがあるが、土の状態はよくなってきている。

持つべきものは友だ。
諦めかけた田植えを半日だけ手伝えるという仲間が二人いてくれた。
三人で半日だと半分もいかないだろうけど、やるだけやろう、ということになった。
来てくれたのはUターン帰郷してから趣味で自然農法を始めた鍼灸師の藤巻さん。
彼は農業未経験者だけど、鍼灸師という立場から自然農に目覚めたらしい。
俺とは逆のコースだが、糸魚川で自然農法している人物をパソコン検索して俺のブログを見つけたんだそうだ。春先からちょくちょく手伝いに来てもらっている。
もう一人は、上越市の朝日池総合農場の御曹司の平澤第一君。
第一とは変わった名前だけど、女が二人続いて生れた後の長男ゆえの命名だそうだ。
そして俺の整体の弟子第一号でもある。
午後は俺一人で7時までの作業。
残り1時間で半分終了ということろで日が暮れた。
一緒に作業する仲間がいるっていいことだ。
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by jhomonjin | 2012-06-03 21:42 | 自然農法 | Comments(2)
ある組織から、新潟県の在来種野菜のことについて調べて欲しいと頼まれた。
東京の在来種野菜を貰って食べたらとても美味かったからだそうだ。

結構難しい宿題である。
例えばジーンバンクという独立行政法人では全国の在来種野菜の種子を保存しているそうだ。
そこの検索サイトを使ったら穀物まで入れれば新潟県には269個もの在来種の栽培植物があるそうで、野菜に限れば60件ほどあった。
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大雪は峠を越した、という事になっている。近所のスーパー「harasin」の駐車場には除雪した雪が高さ4mほどの山になっていた。これ以上降ったらどうすんだろう?市内でも雪が少ない海岸地帯なんだけんどもねぇ。

しかしだ、種子が保存されているからといって現在も栽培されているとは限らないのだ。
マンモスが冷凍保存されているからといって、マンモスは絶滅したことには代わりが無い。
例え映画「ジェラシックパーク」みたいにハイテクを駆使してマンモスを甦らる事が出来ても、地球上にマンモスが生きて行ける環境が残っているのか?

在来種野菜が何故無くなっていくのか?
農協がせっせと交配品種の種を売ったからである。
偉そうに「営農指導」という名目だ。
挙句の果てはF1品種といって、子孫が残せない種ばかりになってしまった。
農協は儲かるだろうが、これだと農家は毎年種を買い続けなければならない。
この構造にはアメリカの国家戦略がどうのと取りざたされるが、とにかくこのことで農家は縄文以来数千年も続いてきた循環型の営農が成り立たなくなってしまった。
今では肥料も大部分の農家で自家製ではない購入品になっている。

在来種は美味くても作況にバラツキが出たり、育てるのに手間暇がかかったりするので、換金作物ではない自家消費的な位置付けになり勝ちだ。
だから作り手が高齢化して跡継ぎがいないと途絶えてしまう。
酷暑や霜、病害虫の対策に追われ、長雨や冷夏に悩まされながら営々と繋いできた作物の連鎖が突然に切れてしまうのだ。
在来種の本当の値打ちは実はここのあるように思う。
真摯に作物と向き合い、慈しみ育て次世代に営々と繋いできた百姓の歴史の重みだ。

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本日の縄文カヌー。写真だと分かり難いが、船底に向けて狭くなる「外転び」に加工した。安定性と速度を増す工夫で、実は出土した縄文カヌーにはない加工だが、太平洋諸島のカヌーはみんなこの加工がしてある。内緒やでぇ。

練馬大根や京野菜は大消費地に近接してたから早くからブランド化して今日でも生き残っているが、多くの在来品種は作り手が途絶えて人知れず消えていく方が多いと思う。
糸魚川には「びんの豆」という在来品種大豆がある。
びんの、とは地滑り地の方言らしい。
山間地の地滑り地帯でひっそり作られていて、ほとんど絶滅しかけていた所を市内の農業法人がブランド化に成功して、世に出たのだ。
びんの豆は山間地の地滑り地帯で育つ大豆だ。
だから同じ市内でも海岸地帯の俺の家の庭に植えても育たないと思う。
在来品種はその土地の味でもある。
その土地で、手塩にかけて育てた百姓の生き様の味だ。

だから美味いし、身になるのだ。
ちょっと複雑な思いのする宿題である。
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by jhomonjin | 2012-02-05 22:09 | 自然農法 | Comments(2)

稲刈り終了

不耕起の田んぼの稲刈りが終わった。
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ハサ木
今年は二段で済んだが、俺の子供の頃は八段にハサ木を渡した。
最上段に登ると能登半島が見えたし、うんと空気が澄んだ時には、見えないと言われている筈の佐渡も見えた。

この付近では刈り取った稲をハサ掛けして乾燥する人は大分前からいない・・・らしい。
ほとんどの人は兼業農家で後継者がいないので、田んぼ仕事はプロに委託しているからだ。
プロはコンバインで稲刈りと脱穀を同時にしてしまい、持ち帰った籾を機械乾燥するので手間の掛かるハサ掛けは必要ないのだ。
この土地にハサが建ったのは何年振りなのか分からないけど、ハサを建てて稲を掛けた。

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雲南省のハサ木
東南アジアでは、脱穀した籾を地面に広げる「地干し」をよく見かけるが、タイの博物館で読んだ小数民族の本には、雲南省のカレン族のハサが出ていた。多段式のハサ木は近代に普及した日本独自の形式と思っていたが、世の中は広い。

俺の場合は刈り取りも機械(バイインダー)では無く、手刈りだ。
刈った稲を藁でまるけて、ハサに掛ける。
まるける、とは纏めた稲束を縛る事をいうが、これは稲束に去年の藁数本を掛けてから空中で二回転ほどクルクルと廻してから藁の先端を掛けた藁に捻じ込む結束方法だ。
実に安直な縛り方だが、このままでも自然に解けるという事は無く、結束にかかる時間も一束当り僅か十秒もかからないのだ。
先人の知恵に学ぶ事は多い。

モクモクと作業するが、こういった手作業は何だか波乗りをしている時の感じに似ている。
ビリヤードをしている時の感じにもちっと近い。
意外に思うかも知れないけど、波乗りって実はすごく静かなスポーツなのだ。
もっとも人によってその感じは随分と違うようで、波乗りをしている時は頭の中にガンガンとヘビメタが流れている、なんていう奴もいる。
俺の場合は、静寂のイメージだ。
鎌で稲を刈る時のザクザクという音、手応えに時を忘れる。

コンバインで稲刈りと脱穀を同時にして、機械乾燥をするという事はどういう事なのか?
刈り取ったばかりの籾はかなり水分を持っている。触ってみると湿っているのが分かる程だ。
それを強制的に短時間で機械乾燥するので、とりあえずは籾の水分は理想的な状態に管理はされている。
流通している米のほとんどが、この方式で乾燥された米だ。

ハサ掛けの稲の場合は、籾を下にした状態で一~二週間ほど自然乾燥するので、その間に稲藁に残った滋養分が籾に伝達され米の熟成が進む、と言われている。
手間と時間をかけた分だけ、何が変わるのか?味なのか?生命エネルギーなのか?
それとも何も変わらないのか?

あなたなら、機械乾燥された米とハサ掛けの米と、どっちが食いたいか?
どっちにしても農協に出荷すれば同じ値段が付く。

日本の秋の風物詩の一つであるハサ掛けの風景は、確実に消滅に向かっている。
もしかしたら、俺が糸魚川でハサ掛けする最後の人間になるのかもしれない。

来年は古代米も作ってみたい。
今年は雑穀の畑はほんの少しだけだったが、アマランサス、モチ黍、タカキビが結構収穫できたので、来年はもっと大規模に作付けしてみたい。
こんな事でも地道に愉しんでいると、後に続く人達が出てくるのではないか?と望んでいる。
いつか日本全国どこを探してもハサ掛け風景が見つからなくなった時、糸魚川にだけ残っていれば、オランダの風車みたいなもんで、それだけで観光名所、世界遺産になる可能性もあるぞ。
来たれUターン、Iターン希望者。田んぼが君を待っているぞ!
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by jhomonjin | 2010-09-18 22:41 | 自然農法 | Comments(1)
春先に植えた雑穀に穂が付き始めた。
アマランサツ、タカ黍、モチ粟、陸稲だ。
陸稲は水稲のコシヒカリの余って捨てられていた苗を畦から拾って畑に植えたもの。
除草だけの管理しかしていないのに順調に育ってくれて、あと数日で出穂しそうだ。
周りのプロの農家は、水稲を畑に植えてもすぐに枯れると言っていたが、なかなかどうして稲は逞しい。

ある朝、雑穀畑を見回っていたら、ミツバチがせっせとタカ黍の花粉を集めていた。
後ろ足に二個の大きな花粉ダンゴをぶら下げて、毎朝の様に飛んできている。
こんなに小さな身体で健気に生きているんだ・・・ただ懸命に生きているだけで作物の受粉に貢献してくれて、世の中の役に立っているんだなあ・・・周りは除草剤や殺虫剤だらけの田畑ばかりだけだから、化学製品は一切使ってない俺の畑はオアシスだろうなあ・・・有難う、頑張れよぉ!とシミジミと感謝する。
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タカ黍とミツバチ
後ろ足に二個の花粉ダンゴを抱えている。西洋ミツバチらしい。
毎朝来ているのは、同じミツバチなのか?どこから飛んで来ているのか?
解らない事ばかりだが、嬉しい俺の畑仲間だ。

除草剤の大量使用が原因とされるミツバチの大量死が問題になっているが、ミツバチに何の罪もないのに、気の毒な事だ。
普通に生きているだけで自然と世の中の(自然界の)役に立っているのが物言わぬ虫達で、それに較べたら人間の場合はどうなんだろうか。
以前、神奈川県の藤沢市に住んでいて、江ノ電に乗る事が多かったのだが、ある日電車の中にミツバチが飛んできた。
電車内はパニック状態で、年配の男性がミツバチを追いかけまわして潰して殺してしまった。
周りの女性達はニコニコと笑って「有難うございます。助かりました。」と言っていた。
ミツバチを殺した男性も満面の笑みを浮かべていた。
「静かにしていればミツバチから刺してくる事は無いのですよ。その内に窓から逃げていきますから窓を開けてやって下さい・・・」と言いかけた矢先の出来事だ。
やりきれんのう、と暗澹とした気分になった。
そんなミツバチに対する過剰反応は、田舎でも同様だ。
友人の長野県在住のミュージシャンである大村和生さん(カズさん)は、自分の周りに数日間に渡りまとわり付いてきた日本ミツバチに「俺に何か伝えたいんだな。」と感じた事がきっかけで、日本ミツバチを飼うようになったそうだ。
カズさんはネイティブアメリカンの動物占いをするので、こんな時にはミツバチに刺される、という不安な気持ちは一切持たずに、やって来た生き物にどんな意味が隠されているのかを読み取ろうとするのだ。

有難い事に、俺の友人達は都会育ちでも見守る、という態度が自然に取れる奴ばかりだ。
よくこのブログにコメントを寄せてくれる、浅草のシンタローや千葉のマッチャンも然り。
整体の大師匠の野口裕之先生も同様だ。
ある日、道場に一匹の足長バチが紛れ込んで来た。
怯える女性達に対して大師匠は、「殺すなよ。窓を開けて逃がしてやりなさい。誰かが挨拶しに来たのかも知れないよ。」と泰然としていた。
都会人でも流石に俺が師匠と見込んだだけある。カズさんと同じ態度である。

静かに状況を見守る事の出来る人が、日本に少なくなってきているように思う。
俺が21世紀の縄文人を目指す為に選んだ二本柱である、整体と自然農法も、静かに状況を見守って観察する、という態度は絶対的に必須だ。
だからこんな態度が取れる人は、縄文人の匂いを感じて自然と親しくなれる。

さて、以下は謎々だ。
俺の畑の作物の花だけど、何の植物の花か解りますか?
ナスや胡瓜の花は見た事があっても、この花はどうでしょう?
答えは最後に!
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一番

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二番












次の写真は、カボチャ栽培の工夫だ。
通常カボチャ栽培は地面の上で実を成らせるのだが、ネット等を張って空中で成らせると万遍なく陽が当たり色むらが出来ないと「現代農業」に出ていたので、ネットは買わないと無いので沢山あった支柱でドームを作り、その上に誘引してみた。
結果は数週間後にならないと不明だが、こんな工夫は楽しい作業だ。
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カボチャのドーム
公園の遊具みたいでSFチックな光景だ。毎朝どれだけ伸びているか見るのが楽しい。







最後はやっと完成した資材置場。
いつものガラクタ工作と違って、仕事で作ったので全て新しい材料を使用した。
足場用の単管で本体を作ってある。風が強く豪雪地帯なので、構造上の工夫を色々したが、俺ひとりの単独作業で完成させたにしては柱の垂直が揃ってくれて、ちょっと自慢。
これでこれまで作った小屋は六棟になった。
全て畑や庭などの不整地に作ってきたが、そんな場合には基礎は単管で「トンボ」を作って不陸調整をするのがベストのようだ。
建築に詳しくないと意味が解らないと思うけどね。
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資材置場
一人作業だと柱や梁を垂直と水平にするのが難しいが、かなり慣れてきた。







週末には、カズさん一家とその友人の家族が糸魚川に海水浴とキャンプに来る予定だ。
俺の自慢の親不知海岸に案内したい。

花の答え
一番;ピーマン
二番;枝豆
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by jhomonjin | 2010-08-07 15:37 | 自然農法 | Comments(1)
今の時期、農家は田んぼや畑の畦除草に追われる。
圃場に除草剤を散布してあっても、圃場の周囲や畦には沢山生えているからだ。
これは自然農法でも慣行農法でも同様だけども、稲に覆いかぶさる程に伸びた雑草は、作物への日当たりと風通しが悪くなるし、カメ虫などの害虫を田んぼに入れない為などの目的で、刈払い機(草刈機)などでの除草が必要となる。
研修先の農園では、自走式の大型除草機と、人間が手に持って除草する刈払い機を併用している。
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刈払い機
俺の場合は、腰を捻らず、腕力も使わず、刃の回転トルクに乗って、股関節の前後動とステップの踏み変えで左右に振っている。ハンドルも握らずに掌を上から軽く乗ておくだけだ。握ってしまうと機械の振動で疲れるし、シビレてしまうからだ。

俺は刈払い機による除草作業が好きだ。
機械を人間が扱うのではなく、人間が機械を扱う感覚が楽しいのだ。
ちょうどバイクに乗ってワイディングロードを走っている感じに近い。個人の工夫次第で作業効率や出来栄えに差が出来るし、エンジン音に包まれた孤独感がたまらない。

俺はこれまで色々な人の刈払い機による除草を見てきたが、その中でダントツの達人だったのが、藤沢の植木屋でバイトしていた時の親方のFさんだ。

ある時、草丈が2mを超える程に雑草が伸びたジャングル状の空き地を5人で横一列に並んで除草した。
刈払い機による除草は、刃の回転が反時計回りなので、右から左に刈払い機を動かせば刈られた雑草は自然に左に倒れていく。
田んぼの畦道を除草する場合は、最初に田んぼを右側見て、右の畦際を前進しながら刈っていって、終点で折り返して左の畦際を刈って戻れば、刈った雑草が田んぼに落ちないですみ、刈り残し無く綺麗に除草が出来る。これは農家なら誰でもやっている。

問題なのは、その時の様に雑草が背丈の高い雑草がジャングル状になっている場合だ。
その時は、仕事の効率を考えて、基本通りに地際を右から左へ刈払い機を動かせば取合えずは右側は地面が見える程には刈る事が出来たが、高さが2mもあるイネ科の雑草が倒れると、左側がグシャグシャに折り重なって地際から綺麗に刈れなくなってしまった。
倒れた雑草の下に刈り残しの雑草も埋もれてしまっている。
しかも葛などの茎の太い蔓草も生えていたので、シャフトに蔓が絡み付いて自由が利かず、他の職人さん達も刈払い機を目茶苦茶に振り回してい悪戦苦闘をしていた。
しかし親方のFさんだけはズンズン先に進んでいって、刈り後も綺麗だ。
倒れた雑草も一定方向に倒れている。
このことは、Fさんは規則的な動作の連続で仕事をしている、という事の証明になる。
動作に無駄が無いのだ。
職人さんのテイタラクを見かねてFさんが怒った。
「お前ぇら、ダメだ。みっともねえぞ。頭を使え!いいか、刈払い機の刃は左に回転してんだ。その回転トルクを上手く使えよ。それにこんなに背が高い草刈んのに、一発で仕上げようと思うんじゃねえ。俺のやんの見てろ!」
こう怒鳴って全員を集めてFさんの除草を見学させた。
Fさんの除草は、最初に雑草の真ん中くらいを右から左に刈り、戻りで左から右へ地際を刈っていく、という二段式除草だった。
見ていて気持ちが良い程に手際が良く、綺麗な仕上がりだ。
真似してみたが、全員Fさんの様には上手くいかない。

あれからジャングル状の荒地を除草するにつけ、Fさんの真似をしてみていたが、先日やっとそれらしきコツを掴んだ。

まず右から左に中段を除草する時には、右足を前に出した右半身に後傾気味に構え、刈払い機の刃を水平ではなく、左手首を半月(手の甲を外側に曲げる)にして左側を下げた斜めにして、上から右半身を叩き付ける様に左側に一気に除草する。
左から右に戻る時は、左手首を満月(掌を内側に曲げる)にして地際を水平だ。
この時に重要なのは、左肘を脇から離さない事と、刈払い機の刃先を正中線から外さない事だ。
これは古武術やお茶の稽古からの工夫だ。
そうするには、腰の回転が必要なのだが、それだと腰が痛くなるので、俺の場合は左右の股関節を前後にスライドさせて刃先の左右動を作っている。
子供の頃に習っていたボクシングでは、防御や攻撃によく股関節を動かして半身の入替えをするのだが、これはその応用だ。
こうすると左半身、右半身の入替えが素早く出来、股関節の動きで全身が連動して大きく身体が動いてくれるのだ。

手首を半月、満月にする、というのは、整体とお茶の稽古からの工夫と用語借用だし、古武術の師匠である甲野善紀先生の杖術や槍術でもこの手首の動きは多様されている。
右手首は、左手首を主導にして、逆に曲げれば良い。
左手首を満月にしたら、右手首は半月という具合だ。
「田んぼで学ぶ井桁術理」の処でも書いたが、やはり肉体労働には左の動きを主導にする、というのがポイントになる様だ。

この一連の動きを刈払い機の動きで見れば、刃先が左右に八の字に動いている事になる。
体感的には和船の櫓を漕いでいる感じに近い。

疲れや時間の流れを忘れて夢中になって草刈していたら、時刻は夜7時半をまわっていた。
一人だけで仕事をした場合は、いつの間にか整体の動法の稽古になってしまうのはよくある事だ。
思えばボクシング、ウィンドサーフィン、スノーボードとこれまで夢中になってきたスポーツも、上達の狭間には、「疲れも時間の流れも忘れて無我夢中になった」時を経験している。
いい感じだ。一皮剥けた感じで、なんだか嬉しい。
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by jhomonjin | 2010-07-19 00:07 | 自然農法 | Comments(0)
梅雨入り前後から、不耕起の田んぼに泥虫が大量に発生した。
泥虫とは稲の害虫である。葉っぱに米粒から小豆大の大きさの泥の粒が付いたように見える小さな芋虫で、成虫すると小さな赤い甲虫になるらしい。
泥虫とはよく名付けたもので、ちょっと見には小粒の泥が付いているようにしか見えない見事な擬態だ。
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泥虫
泥状の粒を取って見ると、中には黒っぽい芋虫がいる。
茶色に変色した部分が食害の跡。
白い蛹になっているのもある。




俺の田んぼには一切の農薬、除草剤は使用していないので、少々の食害程度なら覚悟しているので見逃す事ができるけど、一枚の葉っぱに10匹も鈴なりになって稲の葉っぱを食い荒らしているのを見て、流石に焦った。
なかには白茶色に立ち枯れている稲もある。
それに狭い範囲に五本前後の苗を密植する慣行農法の田んぼと違って、俺の不耕起の田んぼは広い範囲に苗を二本植えしているので、いくら分結して茎の数が増えているとはいえ稲株の数が少なく、余裕が無いだけに深刻な事態と成り得ないのだ。

お袋に相談したら、梅雨初期の一時的な現象で、大雨が降ると流されるので心配ないが、気になるなら稲を箒で払えば泥虫は簡単に落ちるとの事。
残念ながら今年の新潟は、入梅しても大雨がなかなか降ってくれていない。
休日に帰宅する度に田んぼで箒を振って泥虫を落としていた。
隣りの田んぼは、除草剤や農薬を使っているので、青々とした稲に成長している。
俺の田んぼは、稲株も少ないし、泥虫の食害で稲の葉先が白っぽく変色しているので、みすぼらしく見える。
食酢や木酢液を散布する事も検討したが、泰然自若としたお袋の態度を見て、経過を待つ事にした。

どうやら俺の田んぼは、泥虫からは楽園に見えるらしく、付近の田んぼから集まって来ているらしい。
これは川口由一さんや木村秋則さんといった、自然農法の先達が辿って来た初期の苦労と、同じ経験を辿っているのだろう。その意味ではちょっと嬉しいが、複雑な心持である。
泥虫は、余剰の栄養分や、これまで使い続けて来た有機肥料や除草剤、農薬の浄化をしてくれているんだ、と観念して黙々と泥虫を払い続けた。雑草も多いのも同様と、取り続けていた。
不耕起の田んぼの除草は、鋸鎌を地面の中に鎌の刃先を入れて地際から除草するのが川口由一さん式の除草だ。こうすると根っこが残るので、暫くするとまた雑草が生えてくるが、2,3回繰り返せば雑草に勢いがなくなる、という考え。
根っこを残す事で世代交代が緩やかになり、土の中で根っこが土の養分となってくれるからだ。

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現在の田んぼ
川口さん式の不耕起の田んぼでは、除草は一度に全部行なわずに、一条毎に交互に除草するので、雑草のある条と除草した条が縦縞模様となる。
雑草があると生態系が急激に変化せずに虫達の住処となってくれるからだ。要するに稲の成長が雑草の勢いに負けなければ良いのだ。


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除草鎌
三角ホーという除草用の鎌で、最近の俺のお気に入りだ。
柄が長く腰を屈めなくてすむので楽なのだ。刃先は研いで鋭くしてあるので、地際を素早く引くだけで雑草がスパスパと切れる。条間が通常よりも広い一尺五寸(45cm)もあるから出来る技である。


不思議なのは、除草剤を使っていない田んぼをどうやって虫達は見分けているのか?という事だ。
匂いなのか?それとも五感とは違った何かなのか?
それに見るからに丈夫そうな稲には泥虫が少なく、弱々しい稲に集中している事である。

有難い事に、今週は昼間は晴天続きだったが、夜半に大雨が続いてくれた。
田んぼに行ってみると、立ち枯れた稲は別にして、大部分の白茶色に枯れかけていた稲の葉先が黄緑色に甦っている。泥虫も激減した。
正しく恵みの雨だ。
隣りの田んぼのおじさんも、ここまで回復するとはビックリした、と俺の田んぼを見て唸っていた。

整体では、身体の変調が回復する事を「治る」とは言わずに「経過した」と表現する。
風邪を引いても、癌になってもこれは変わらない。
症状を問題視せずに、症状は何かの欲求表現であって、その経過を辿り症状の後ろに隠されている何かを探る事が重要なのだ、と教わる。
「症状即療法」というのは、誰の言葉だか知らないが至言だ。
整体指導者は、その導き役だ。
これと真逆なのが、熱が出たら熱を下げる工夫をする、咳が出たら咳を止める工夫をするという考え方。これは西洋医学的な発想。
整体の師匠は、「反対を与えてはいけない。要求に応えてはいけない。病気を観るのではなく、人を観るのがプロの整体指導者である。」とよく口にする。
その事は頭では分かっているつもりだ。
でも実際の現場に立つと、すぐに反対を与えたり、要求に応えようとしてしまう自分に気付いて苛立ってしまう。
肩が痛い、腰が痛い、冷え性で困る・・・こう訴えられると、症状に反対を与える事、つまり治す方策を考えてしまうのだ。

自然農法の草分けである福岡正信は、「ほったらかしと放任は違うのだ。」と何度も著書に書いている。しかし、この違いを具体的な方法論では説明してはいない様だ。
この具体的な違いについても、頭では分かっているつもりが、実際の現場に出るとどうしていいのか分からなくなってしまう。

反対を与えない事、要求に応えない事、ほったらかしと放任の違いについて、これらの事は各自が実際の現場を通して気付いていく事なのだろう。

泥虫のお陰で、得難い経験を積んだ。
木村秋則さんは、リンゴの害虫であるハマキ虫のお陰で様々な気付きが出来た、とハマキ虫ちゃんと呼び、自身によるハマキ虫の手描きのイラストをトレードマークにしているそうだ。
木村さんに較べたら小さな経験でしかないけど、泥虫の食害を経過を経験した事で、何だか一皮剥けた気がする。
整体の師匠、自然農法の先達、俺にはこれからやろうとしている事の指針となる人達がいる。
個人としてはゼロからの出発だけども、こうした灯台役の存在は心強い。
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by jhomonjin | 2010-07-10 23:25 | 自然農法 | Comments(0)
土からにょきりと突き出た、斑模様の茶色の得体の知れない植物を見て、これが何であるのかを即答出来る人は、滅多にいないだろう。
形状はタケノコに似ているが、色と模様だけ見ると爬虫類か両生類を思わせる。
正体はコンニャク芋の茎である。
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コンニャク芋の茎
もう少しで茎の先端が開いて葉っぱが広がる。
収穫は秋で、コンニャクは根っ子の芋の部分を擦り下ろして作る。
手前が大豆で、右側奥が稲苗。稲も扇型に開いて成長してきた。
稲苗を畑に定植した時は、周りの人からすぐ枯れる、と言われていたが、物は試してみるもんだ。

コンニャク芋を植えると最初は赤い芽が出て、やがてくすんだ茶色の皮に覆われ、すくすくと伸びて茎になる。
この茎が40センチ前後にまで成長すると、先端が割れて緑色の葉が開いてくるのだ。
なんだかエイリアンの誕生みたいで、このコンニャク芋からプルプルしたコンニャクが出来るとは、ちょっと信じ難い。
俺も初めてのコンニャク芋栽培なので、次にどんな展開になるのかは未知であるが、刻々と変化し続ける姿に驚きの連続だ。

同じ畝に植えたコンニャク芋とコンニャク芋の株間には、大豆を植えた。
枝豆が好物だし、豆科の植物は大気中の窒素を土壌に取込んで固定してくれるので、栽培植物の周りや間に植えると、土壌が豊かになり栽培植物の成長に貢献してくれている。
農薬や肥料を使用しない自然農法では、大豆は一石二鳥の大活躍だ。
植物自体が肥料分になってくれるので、この様な植物を緑肥と呼ぶ。
緑肥にも色々あるが、豆科ではクローバー、蓮華なども知られており、他にも麦類も米の収穫が終わった端境期の田んぼに生やしておくと、他の雑草が生える余地が無くなる抑草効果もある。
蓮華の場合は、春先に赤紫の小さな花が咲いて綺麗だし、麦類の場合は根っこが土壌に深く入る為に(種類によっては2m前後)土壌の中の硬い層である硬盤を壊し、土壌を細かく砕き柔らかくする効果がある上に、麦の収穫も出来る。

この畑は、空き地を春先に開墾した俺用の自然農法実験畑である。
他にはアマランサツ、タカ黍、モチ粟の雑穀類と、人参、大根が植えられている。
田植えで余った稲苗も畑に植えてある。水稲が畑でどれだけ生長出来るのか?
普通のコシヒカリの苗が畑で陸稲として収穫できるのか?興味が尽きない。
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アマランサス
種まきしても一月位は発芽しなかったので、諦めていたがなんとか本葉が出てくれた。
たじろぐ様な不思議な形の赤い花が咲くらしい。
収穫できたらご飯に混ぜて食いたい。

人参と大根、大豆、稲苗も畝を作らずに、雑草の合間に植えたので、知らない人が畑に入ると「あっ、そこは踏んじゃダメ!あっ、左足の右には大豆があるよ!」と俺に怒鳴られてしまう事になる。
まるで地雷原みたいで、足の踏み場に四苦八苦する人を見ては楽しんでいる。

近所の農家は、俺の畑を見て「雑草が多くて大変ですねえ」と気の毒がっているが、それでも近所からの苦情を言われない程度に除草はしてあるのだ。
本当は必要最小限の除草に留めたいのだけど、そうなると真面目な農家からみると「雑草の種が飛んできて困るし、害虫が増えて自分の畑に来るのではないか?」と心配の種になるから、エチケットとして道際などはある程度は除草する。

自然農法では地面が見える程の除草は、土壌の乾燥を招き、夏場の地温が高くなり過ぎる、として栽培植物の成長に阻害にならない程度に留めておく。
刈り取った雑草は、薄くその場に敷いておく。厚く敷いてしまうとナメクジなどの虫が繁殖して、せっかくの植物が食害を受けてしまうので、薄く敷いておく。
刈り取った雑草が沢山ある場合には、面倒でも畑の脇に除けておいて、枯れてから刈り取った場所に敷いておく。
その事で土壌に水分が保たれ、次の雑草が生えるまでの期間が長く取れる。マルチング効果だ。
また畑に栽培植物しかないと、餌を求めて来た虫の恰好の餌食となるので、雑草があるという事は虫達に多種多様な餌場を供給する事となり、結果として栽培植物の食害が最小限度に抑えられる事になる。
この多種多様な、という処が大事なのだ。
だから自然農法の畑では、少量の品種を大量に作るのではなく、多品種を少量づつ作る。
逆に一般的なプロの農家は、少品種大量生産の方が手間も掛からず儲かるとされている。
米作り専門農家はスーパーで野菜を買うし、トマト専門農家は他の野菜や米をスーパーで買っているのが現実だ。
大規模な農家ほど機械化が進んでいるので、鍬や鎌といった昔ながらの農具はほとんど使用しなくなってきている。

多品種少量生産の面白みは、前回の記事の東京の下町や、京都の町屋を歩いている時に感じる楽しさ、心の安らぎと同質である。
多様性は素晴らしい。
この事は、国家概念や一神教を持たなかったであろう、縄文時代までの日本列島人の心の在り様に通じると思うのだ。

とはいっても、俺も試行錯誤の段階なので、大きな事は言えない。
除草の時期、度合いや間隔など、まだまだ改善の余地は沢山あるし、どこを改善したら良いのかさえ、まだ解っていないレベルでしかないだろう。
整体でもよく機・度・間の事が稽古の課題になる。機とはタイミング、度とは度合い、間とは間隔の事だ。
タイミングは「今だ!」という時は既に遅いのだ。
甲野善紀先生から聞いた事だが、江戸時代の武術指南書に「今という時では既に遅い。イという間にマは過ぎ去っている。」という意味の言葉があるそうだ。
考える間もなく、絶妙のタイミングで行動に移っていないと駄目だろう。

こんな事からも、自然農法と整体の共通項を見出し、相互に高めあう事が出来るのではないかと思っている。
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by jhomonjin | 2010-07-04 11:47 | 自然農法 | Comments(0)