21世紀の縄文人を目指す男の記録


by jhomonjin
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<   2010年 06月 ( 7 )   > この月の画像一覧

研修先の農場に、中学生が職場体験に来た。
中二の女子二名、男子三名の一週間に渡る体験実習である。
トマトの収穫と箱詰め、卵の集卵と汚れ落しと箱詰めなどの軽作業を主にやって貰う。
といっても一週間に渡る体験期間の内に、収穫の端境期があった。

他に中学生にも出来る作業は無いか?と聞かれたので、材木の結束を手伝って貰う事にした。
俺は現在、集団作業の合間に材木置き場の小屋をコツコツと作っているので、大量にある貫という細長い板材を四枚一組にして、縛って貰えば俺も助かるし、危険も無く簡単な作業なので中学生にはうってつけだ。

まず説明しながら実演して見せる。
「いいか、材木を四枚一組にしたら紐できっちりと二回巻いてくれ。きっちりとだぞ。それから平べったい所ではなく、角で片結びにして欲しいんだ。分かるか?角で結んだ方がきっちりと縛れるんだぞ。片結びは蝶々結びの片側だけの結びだ。片結びの方が、縛るのも解くのも蝶々結びより早いから、こういった仕事ではよく使うんだぞ。」
因みに剣道の防具や甲冑の着用方法なども、結び易さと解き易さから、片結びを多用する事も余談として教えた。

こんな説明をしながら、一人づつやらせてみた。
実演は、最初は蝶々結びをしてから、片結びに戻し、次には最初から片結びに縛るという方式で二回やってみせた。
女子は二回くらいやってみて、出来るようになった。

問題は男子だ。何と取っ掛かりとなる蝶々結びが出来ない。
「ん?蝶々結びが出来ないのか?靴紐の結び方だぞ。」と彼らの足元を見ると、一人はマジックテープ式の運動靴、一人は紐を結んでおらず、一人は蝶々結びにしてある。
運動靴を蝶々結びにしてある少年だけは、靴の縛り方と同じだという説明で何とか縛る事が出来るようになった。
後の二人に何度もやって見せるが、蝶々結びはともかく、三十分やらせても片結びが出来ない。
仕方ないので、蝶々結びでも良いぞと言ったが、実に無様な手付きで「きちりと」縛る事が出来ないので、材木の整理をして貰う事にした。

ロープワークは、自然な流れに結んでいくと、上手く出来る様になっている。
頭で考えるより、迷ったら手が自然に流れて行く方向に乗っていけば、難しい縛りや結びでも意外にも出来て仕舞うのだ。

俺が蝶々結びを覚えたのは、これからは一人で何でも出来なきゃ、と小学校の入学式前後にお袋から教えて貰った様に記憶している。
俺が中二の頃といえば、若い頃に漁師をしていた叔父に習って、もやい結び、一重継ぎ、巻き結びといった漁師が多用するロープワークを習っていた頃だ。
ちょうどその年齢は、自立心が旺盛になって、大人っぽい行為や振る舞いに憧れる年頃だ。
当時は、イザという時に頼りになる男・・・天災などで活躍して周りの人を救助出来る恰好良い大人・・・例えばサンダーバードの隊員みたいな正義の味方に憧れていたのだ。

蝶々結びの出来なかった少年達は自立心を育てる機会に恵まれなかったのではないか?
ずばり、それは親の責任だと思う。
彼らの親は、彼らの自立心の芽を摘んでばかりいたのだろう。
中二になっても蝶々結びが出来ないという事は、器用や不器用という手先の問題以前に、自立心の未発達があるように思う。
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涼風献上!
今週のサービスショットはカンボジアのフルチン少年。
結構流れの早い川に歓声を上げながら、飛込んでは流されて、と何度も繰り返していた。
河に立入禁止の看板も無ければ、危険なので柵をしろというクレームとは無縁な世界。
こんな少年も日本では絶滅危惧種だねえ。


話し変わるが、薪ストーブが自宅にある友人から聞いた話である。
友人宅に、都会から知人の家族連れが遊びに来た時の事。
友人は畑に野菜を採りに行く間に、家族連れのご主人に薪ストーブの着火を頼んだそうだ。
三十分して戻ってみたら、徳用の大箱サイズのマッチを空になるまで使っても、薪ストーブに着火出来ていなかったそうだ。
ストーブの前には、新聞紙、小枝、ダケカンバの樹皮といった着火材はちゃんと用意してあった。
三十分かけても着火出来なかった気の毒なお父さんは、マッチを擦ってから直接に太い薪に着火させようとし続けたらしい。
焚火に慣れていないから、が問題ではなくて知恵が無いのだろう。
なぜ何の工夫もせずに同じ失敗を繰り返し続けてしまうのか?
これなどは、笑うに笑えない話だ。

この事も、自立心の未発達があると思う。
子供の頃に好奇心の赴くまま様々な体験をしていれば、自ら工夫するという知恵も自然に生まれるだろうが、子供が体験すべき事を親が全て代りにやってしまって来たから、自分で工夫するという感覚経験が育たなかったのだろう。

中学生達は、帰り際に作業を続ける俺の所まで来て「有難うございましたぁ~。役に立てなくてゴメンナサ~イ!」とペコリと何度もお辞儀をして帰っていった。素直で可愛い奴らだ。
俺も大声で「おう、有難うよう!気にすんなよう~、助かったよう。また遊びに来いよう。ガンバレ男子ッ~!」と返した。
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by jhomonjin | 2010-06-27 00:44 | 身体感覚・身体文化 | Comments(0)
八ヶ岳で自然農法を学び始めた時に、稲妻は稲の結実に必要するから、稲のツマなんだ、と聞いた事がある。
本当かと思って調べてみたら、古代では配偶者の事を男女問わずにツマと言ったそうで、当初は稲夫と書いてイナズマと読んでいたらしい。
稲の魂が稲妻により入る、という稲魂信仰があったとの事。
科学的にも稲妻のマイナスイオンがナントカに作用して、稲の結実にナントカとかで、この伝承には科学的にも証明できるんだとか。

今年は梅雨に入っても雨が少なかったが、今日の夕方に初めて稲妻の後に強い雨が降る、といった日和になってきた。
稲も分結して扇型に開いてきている。まずは田んぼも順調だ。
晴天続きで田んぼに繁殖した青みどろ(青い藻)が茶色に変色してガスが湧いてきていたが、今回の雨で綺麗に洗い流してくれそうだ。

自分で米作りをしてみて、稲妻がこれほどまでに神々しく美しいもんだ、と初めて気が付いた。
都市生活で見る稲妻とは見え方がまるで違う。
落雷が怖い、とは考えずに思わず見とれて仕舞う。

今日は蒸れるのが嫌で合羽も着ずに小雨の中、田んぼの除草とこれから始まる「中干し」に向けて田んぼの溝切りと用水路の掃除をしていたが、夕焼け空に稲光と遠雷を聞いて、待ちに待った稲魂様の到来が嬉しかった。
「雨に唄えば」の浮かれた気分とはちょっと違うが、一安心だ。

今回の写真はカンボジアのアンコールワット遺跡群の一つ、アンコールトムの入口の門である。
一口にアンコールワットと言っても、周辺の遺跡を合わせて総称した石造寺院群の事である。
遺跡群は全部周るのに数日はかかるらしいが、俺はテレビによく紹介され、カンボジア国旗にもなっている中央寺院とアンコールトム、ベンメリア寺院の周辺だけ観てきた。
噂によると、ベンメリアは「天空の城ラピュタ」のモデルになっているらしい。
俺が一番好きなのは、アンコールトムだ。
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アンコールトム
遺跡を出た直後にバケツを引っ繰り返した様なスコールが来た。
雨の降っていない遺跡より、こっちの方が断然似合っている。
















アンコールトムは修復があまり進んでいない。
崩れた石積みと、人間の営みを熱帯雨林が森に帰そうとしている対比が良い。ツワモノ共の夢の跡だ。
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アンコールトム内部
まるでエイリアンみたいな奇怪な姿の樹木が遺跡を包み込み、石積を壊していく。
人智を超えたチカラを感じる。
この姿から一体どうやって修復していくのか?
人智が試され、立処が問われる所だ。











修復は進めているらしいが、俺個人としてはこのままの方が良いのではないか?と思っている。
カンボジア人にとっては大事な観光資源、信仰の対象であり、世界に誇る文化財なので、単なる観光客の戯言でしかないが、綺麗に修復整備されたアンコールワット中央寺院より、こっちの方がカンボジアの風景に似合っている、と思った。

話し変わるが、富士山も崩れかけているらしく、一部では今の形を永久保存の対策をすべきか?自然の営みに任せて崩れるままにしていこうか?と議論が分かれているらしい。
何とも言えないが、自然のモノは自然に任せた方が、自然のような気がする。

奈良や京都の木造寺院の修復保存なら俺も賛成だ。
木造建築とは本来、人間が手入れして残していくように出来ている。
ちょっと極端な例だけども、二十年に一度の遷宮をする伊勢神宮や、七年に一度建替えをする諏訪大社の御柱に例を見るように、神道の木造構造物は更新され続け、当初の魂だけが受け継がれていく。

しかし、熱帯雨林の中の石造建築物は、また違う感じがした。
アンコールワットを訪ねたのは雨季真っ盛りだったのが良かった。
シーズンオフなので、観光客も少ない。
あの遺跡には雨が似合う。
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by jhomonjin | 2010-06-21 00:29 | 旅の民俗学 | Comments(1)

冷蔵庫の無い暮らし

世間はワールドカップで盛り上がっているらしい。
職場の人が昼飯の時に「日本戦観なきゃな!」と話しているのを聞いて、初めて知ったのだ。
コウテイエキの話を耳にした時も、ユンケル皇帝液が流行っているのかと思ったくらいだ。

現在の俺は、テレビ、ラジオ、新聞やパソコンなど情報源が何も無い生活をしている。
といっても週の内、平日だけの話である。
今年の四月からは、上越市大潟区の農場で農業研修生をしているので、上越市でアパート暮らしをしているからだ。
といっても神奈川県藤沢市にいた時以来、ここ数年はずっとこんな暮らしをしている。

週末だけ六十キロ離れた糸魚川の実家に帰って実家の田んぼの面倒もみている。
つまりここ三ヶ月は、曜日に関係無く、野良仕事三昧の毎日をしている事になる。

平日の朝は五時~六時に起きて、まず抹茶を飲んでから農場の始業時間の八時まで自分の自然農法の畑をしてから研修先の仕事だ。
朝飯はドロップアウトしたこの十四年以来は食わない事にしている。
室町時代の一般の日本人は朝飯を食わず日に二食の生活だった、と知って、本当なら試してみよう、と思ったからだ。
完全に慣れるのに二年かかったが、朝飯を食わなくても日常生活に支障無く重労働に耐えられる、というのは本当だ。

研修先の仕事を終えてから、また自分の畑をして、暗くて手元が見えなくなるまでやる。
天気の悪い時は倉庫で趣味の木工なんかして、夜八時位に帰宅する。
藤沢時代では木工の他に縄文土器も作っていた。
そろそろ秋の作品展の為に土器作りも再開しようと思っている。十月に高校の美術部時代の仲間達と合同の作品展があるからだ。

帰宅してから風呂、メシ、そして農業系の実用書を目を開けていられなくなるまで読んでから寝る。
疲れた時の気分転換には、民俗学や縄文系の本が「ご馳走」だ。
ここ数ヶ月の暮らしでは、夢を見る事も無く、枕に頭をつけた途端に深い眠りに入る。
この数年は雑誌や小説など読む暇も無い。
まるで修行僧みたいなストイックな生活だ、とよく言われる。
だからワールドカップや政権交代など、世間の動きに目を向ける余裕はまったく無い。


今年は情報源の他に、さらに冷蔵庫無しの生活に挑戦している。
以前からそうだったが、俺の台所は干物のストックが多い。
味噌汁の出汁は切干大根、昆布、干し椎茸、煮干だ。その日の気分で使い分ける。
切干大根と昆布は、すぐに出汁が出る為とそのまま具材になるように細かく切ってガラス瓶に入れてある。
料理研究家の丸元淑夫のアイデアである。
味噌汁やおかずの具材として、高野豆腐、干し若布などの乾燥した海草類は欠かせない。
ご飯は家庭用精米機で、季節の体調に合わせて五合分位で精米度合いを変えている。
出た糠は、糠付けに入れるか、畑に入れる。米の研ぎ汁も土に返している。
ご飯の水加減は、目を閉じてピッタリ、という感覚で決める。
整体の内観の稽古である。
炊飯器の目盛りと多少の前後はあるが、それは俺の感覚が間違っているのでは無く、身体が求めている水加減だと思って炊飯器にそのまま入れる。
ご飯には、雑穀や豆類をガラス瓶に入れてあるので、これもその日の気分でブレンドする。
だから俺の台所は、大小のガラス瓶が沢山並んでいる。

副食は糠漬だけの時もあるし、ごま塩・・・自家製だ・・・だけの時もあるが、野菜は蒸し焼き料理が多い。
野菜は、煮るより蒸した方が調理時間も短いし、美味いと思う。
中華鍋に少量の水を入れて、蒸し焼きにすると、キャベツの太い葉脈も柔らかくなって甘い。
トウモロコシや枝豆は、蒸した方が早く茹で上がるし、残ったお湯は出汁になる。

魚を食べたい時は、冷蔵庫が無いので一回で食える分か、干物だけを買う。
青魚は好物なのだ。
余ったら干したり、塩漬け、味噌付けにする。
肉を食いたくなったら、外食すればいい。

日本各地の郷土料理を調べると、干し野菜などが多用されている。
茄子、胡瓜も干して食うと美味いそうだ。
挑戦したい事が山ほどある。

日頃、どんな生活しているのか?と何度か聞かれたので、今回は日常生活を書いてみた。
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by jhomonjin | 2010-06-19 23:00 | 田舎暮らし | Comments(5)

田んぼで撮った写真

今回は研修先の農場のある上越市大潟区で撮影した写真である。
全て携帯電話で撮影した。
俺の携帯電話もアウトドア主体の農作業で随分と傷んできた。
手が泥だらけの時に限って呼出しされるので、電源端子が錆びてきたり。いつか防水タイプにしないとぶっ壊れるね。
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夕方、近所の老婆がいつも決まった場所で遠くを見ている。
老婆の視線の先には米山がある。米山は標高1000mに満たない三角のピラピッド型の山で、古くから海上交通の目印になってきた。
また昔は米山を境に上越後と下越後に分割されていたらしいが、現在の行政区分は新潟を上越、中越、下越の3区分であり、この山が上越と中越の境になっている。

老婆の視線は米山だが、観ているものは何だろうか?
楽しかった子供の頃や、農作業と子育てに明け暮れた青春時代の思い出、死んでいった親兄弟や友達の事か?いずれにしても過去の記憶に想いを馳せているのではないだろうか。
その想いも流れる雲の様に、流れつづけているのだろう。

バブル経済の時に、湯沢市にリゾートマンションブームがあった。
NHKのドキュメンタリーでその後の湯沢市を取材していたが、この老婆と同じく、いつも遠くの山を観ているという老婆が、「いつもここに座って山を観ていたんだども、マンションが建ってから山が観えなくなって淋しいネ。」と言っていた。
糸魚川の老人なら海を観る処だが、この海も砂浜が痩せてきた、というのは前回にも書いた。
しかも今では広かった砂浜を片側2車線の国道が分断しており、交通量も多く信号も少ないバイパスなので、老人や小さな子供が国道を渡る事は至難なのだ。
だから国道越しに、コンクリートの防波堤とテトラポットの向こう側の海しか見えなくなっている。
便利や快適さと引き換えに、日本中の老人達のささやかな愉しみも奪われているのだ。

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さて、切ない話しの後には楽しいサービスショットだ。
このお姉さんは、苗箱の下に敷かれていたビニール製肥料袋に印刷されていた。
苗箱にビニール製の下敷きを入れないと、苗の根が張って箱から出しにくくなるから、肥料や堆肥のビニール袋をカッターで切って下敷きにするのである。
写真やお姉さんの雰囲気から見て、恐らく1950年代~60年代の撮影だろう。
一体、何時頃からこのビニール下敷きが使われ続けているのかは不明だが、当時の若者は、このお姉さんの印刷された肥料袋を見て「オラもこんな別嬪さんを嫁にしてぇ~!」と、農作業にいそしんだのかな?と思うと楽しいではないか。

昔、新潟市郊外の知人の家に祭りのおよばれに行った時の事である。
彼の家は築100年を超える大きな農家で、お互いに建築の仕事をしていたので、参考になるから是非に家に遊びに来てくれ、と祭りのおよばれついでに行ったのだ。
確かに昔ながらの立派な農家で、梁の柱もケヤキの極太材が黒光りしていた。
仏間に案内された時だ。
漆塗りの浄土真宗の立派な仏壇が作りつけられていて、それが彼の一番の自慢らしい。
俺が驚いたのは、仏壇よりも長押に掛けられた2枚の肖像写真である。
なんと勲章を体中に一杯付けた明治天皇と東郷平八郎(日露戦争でロシアのバルチック艦隊を撃滅した世界的に有名な海軍大将)の写真だ。多分、日露戦争の頃からずっと掛けられていたのだろう。
その事を伝えると、彼はこの二人をずっと偉いご先祖様だと思っていたらしい。のん気な男だ。

田舎には昔の物が何の違和感も無くそのまま残っている事がよくあって、こんな発見もあるので愉しい。

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最後は畦にあった鴨の巣である。
田植えの後に畦の草刈をしていたら、鴨がじっとしていた。
草苅機を止めて近寄っても、じっと俺を見て逃げようとしない。
怪我をして動けないのか?と1m近くまで近寄ったら、やっと逃げた。
卵を抱いていたのだ。小さな体に12個も卵を宿していたなんて、よく飛んでここまで来たな!と思う。もう一週間位で孵化すると思うが、蛇やカラスに食べられていないか?と心配しておる今日この頃です。以上!
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by jhomonjin | 2010-06-12 20:43 | 失われゆく風景 | Comments(2)
国道8号線は、糸魚川市と上越市の間の大部分はずっと海沿いを走っている。
国道の北側は日本海で、南側には山が迫り、集落はこの両側の狭い土地に伸びている。
この区間の国道沿いの細長い集落は、漁村が多い。
信号も少なく、景色が良いので俺の好きなドライブコースだ。
糸魚川市内は国道はずっと海沿いなので、嵐の時は車が波を被る事もある。
軽トラックが波を被って転倒した事もあった。
俺も台風の時に面白がって8号線をバイクで走っていて、頭から波を被ってヤバかった経験がある。
冬の北西風が吹いて、海が大荒れになると、波が砂浜を走るゴーという重低音と、防波堤にブチ当たる震動で家がガタガタ揺れた。
おっかなかったけど、そんな晩に親父が家にいると、心強かった。

学校授業で海の絵を描かせると、日本海側の子供は夕日の海、太平洋側の子供は朝日の海を書くことが多いらしい。高校生までは、毎日の様に海に沈む夕焼けを見ていたので、俺もそうだった。

見慣れた風景だが、今日の夕日も良かった。辺りが優しい桃色に包まれていた。
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夕凪の筒石港
BGMはクラプトンの「ワンダフル・トナイト」で決まりだな。
さざなみとウミネコの鳴き声のコーラス付きだ。





夕日も良いが、月も綺麗だ。
20年程前に真夜中にバイクで走った時なんかは、水平線に浮かんだ金色に光るでっかい満月が、海上を金色に光らせた帯で、俺のバイクをまっすぐに照らし出していた。まるで特殊効果の映画のワンシーンみたいだった。忘れられん風景だ。

さて、今日の写真は今日の夕方に撮ったばかりの筒石港がモチーフである。

・・・関係ないけど先日、ブログ観た人から写真を習った事あるんですか?一眼レフのカメラ使ってるんですか?と聞かれたぞ。ブログの内容は兎も角、写真の評判は結構良いな。
よくその手の質問があるのでこの際にお答えします。
俺はカメラを習った事は無いし、写真関係の本も読んだ事も無い、まったくのトーシロ(寄席の符丁で素人の事)です。
使用しているカメラも3万円代のコンパクトデジカメです。マニュアルすらもろくに読んでないから機能の半分も使ってないと思いますわ。ハイ。

筒石港は現在、新しいコンクリートの防波堤のある新港と、昔ながらの舟小屋が海に突き出した旧港の二つある。
この写真は無論、旧港だが、こんな木造の舟小屋を観ると、俺はグッと来る。
西伊豆や、能登半島東側にもこんな感じの侘びた漁港があった。
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筒石漁港
俺的グッと来る風景。
柱や壁材など、流木や古い舟材なども使っている。
下の写真の捩れた柱で作られた小屋など、作った人の得意満面が浮かぶようだ。

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古今東西、多くの漁師は舟として寿命が尽きた老朽船を保管(放置とも言える場合もある)しておくものだ。廃棄する手間や費用を惜しむ、という側面もあるが、命を託した舟は、たとえ舟としての寿命が尽きても単なるモノとして扱えない、という気持ちがあるからだ。

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船体を解体した場合も、板材にばらして何時かの用にとっておく。次の命に繋ぐのだ。木にも舟にもイノチが宿る、という了見だろう。そんな解体された舟板が、舟小屋の天井裏などに沢山しまわれている。この舟材達は、実際に何かに使われる事があるのだろうか?そう想うと、漁師の切ない気持ちが伝わってくるようだ。
この舟はシマイハギという木造和船独特の構造で、アジア式の多くの船と同様に竜骨の無い一種のモノコック構造である。国内の小型船舶の主流が漁船、ヨットやモーターボートも含めて木造船からFRP(強化プラスチック)船に取って変わられた現在、こんな漁船も絶滅危惧種だ。


この様な海にスロープから舟を出し入れする方式の港では、昔は人力で巻き上げ機を廻していたが、・・・地方によって呼び方は色々あるみたいだが、英語ではキャプスタンだな。形状からいったらキャプスタンだけど、機能からいったらウインチかな?まあそんな処だ・・・現在は機械式のウインチだが、かなりな年代物だ。

俺の生まれ育った寺町の浜は、筒石港の様な天然のスロープに恵まれた地形ではなく、砂浜だったので、子供の頃は木製の巻き上げ機がいくつも砂浜に据えてあった。
高さ1・4m、直径2mくらいの大きさの木製である。
軸になる心棒には貫通した孔が交差する形で二箇所あいていて、舟を上げる時だけ長い力棒を差し込んで人力で巻き上げるのだ。
俺と同世代以上の人ならご存知だろうが、昔カルメン・マキという女性歌手が大ヒットさせた「時には母のいない子のように」という歌を唄う時のセットで、晩秋の砂浜らしい風景に、この木製巻き上げ機と干した魚網がバックになっていた。俺には郷愁を感じる風景だが、思えば昔の歌謡番組はセットに凝っていたねえ。

舟が浜に戻ってくると、漁師の家族や、砂浜で遊んでいたそこいらの子供が呼び集められて、まず舟の下に敷くレールになる長い丸太棒を平行して置かせられる。
ついで漁師に混じって子供らが勇んで海に入り舟を押し上げる。
その間に丸太レールの上に舟を乗せるコロ丸太を乗せるのだ。
舟からロープが投げられ、巻き上げ機に繋いで、今度は舟を押し上げる組と巻き上げ機の力棒を回転させる組、コロ丸太を順序良く並べていく組に分かれて舟を浜に上げていた。
結構な重労働だ。
子供らへの報酬は、「有難ナ!」という一言しかなかったけど、大人の力になれた、人の役に立てた、という満足感で一杯だった。

やがて糸魚川にも姫川港という巨大なコンクリートの防波堤を持つ港が出来て、寺町の漁師達も新しい漁港に移って、舟の上げ下げの重労働から開放された。
そして防波堤ができた事で、砂浜に砂が溜まらず、年々砂浜が痩せていくばかりになった。
小学生の頃は野球が出来た位に広かった砂浜も、今では大きな石だらけの狭い浜になっている。
舟を巻き上げる手伝いも、地引網を手伝う事もなくなった。
新潟では海の家の事を浜茶屋と呼ぶが、糸魚川の浜茶屋も次々と廃業していった。
寺町の浜茶屋は、土建屋の社長をしていた俺の叔父が経営しており、俺も高校生の夏休みに時は監視員のバイトをしていた。都会から遊びに来た可愛い女の子と、ささやかなロマンスもあった。
俺はホンモンのビーチボーイだったのだ。
現在では砂浜で遊ぶ子供も、夕涼みする老人達も往年の半分もいない。

糸魚川も「我は海の子」を地でいく世代は、俺の世代で最後となったようだ。
風邪気味の時なんかは、お袋から海で泳いでくれば治ると言われ、実際にそうだった。
擦り傷なんかも海水で治していた。いや、遊んでいる内に風邪や怪我の事を忘れてしまっていた、という方が本当かもしれない。
家の裏に海があっても、糸魚川の人から海が遠くなってしまった。
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by jhomonjin | 2010-06-11 21:30 | 失われゆく風景 | Comments(0)
除草機編
現代農業の5月号に出ていた様々なタイプの除草機について、研修先の農園の社長から試作して欲しいと依頼があったので、ビニールハウスにビニールを張るた為の波型スプリングを利用した除草機を二つ作ってみた。
二つとも原理は同じで、スプリングを板に留めて田植え後の田んぼを引きずる事で、雑草の除草と田んぼの表面を引っ掻いて濁らせる事で水の保温効果を出す、というシステムだ。
人力式と動力式の二点である。
最初はオリジナル品と同じ人力式を試作してみたが、効果はあるものの広い田んぼを引きずって歩くのは疲れる、という事なので次に動力式を試作した。
これは小型のエンジン付き除草機の後ろに、兆番で上下動出来るスプリングを付けてみた。
また、除草機の後ろにスプリングを付けると、操作する人の足に当たって歩き難くなるので、除草機のハンドルを、ゴミ捨て場から拾ってきたアルミ製物干し竿で延長してある。
延長したハンドルもスプリングも工具無しで取り外し出来るように、蝶ネジで固定した。
バイクいじりをしていた事が、こんな事で役に立っている。
時間があれば、バイクの手曲げハンドルの手法で、延長したアルミパイプも格好良く手曲げしてみたかった。
中空パイプはただ曲げるだけでは、内側が凹んでしまう。パイプを凹まさずに綺麗に好きな形に曲げるには、パイプの中に砂を入れてからバーナーで焼いて曲げるといいらしい。
バイク改造の神様と呼ばれたポップ吉村が開発した技術だ。いつか試してみたいもんだ。
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動力式除草機
除草機とスプリングの間にある4つの白っぽい木材が兆番で上下するので、田んぼの不陸やカーブの際に自在に動く工夫をした。





ビビラ編
ビビラとは、田植えの時に正確な升目に田植えをする為に、田んぼに線を描く機具だ。
都会の中学校が田植え体験に来る、というので田植え機を使わない手植え様に作って欲しい、とこれも農園からの依頼で作ってみた。

地方によって名称は違うと思うが、上越市近辺ではこの機具をビビラと呼んでいるようだ。
因みに同様な機具の糸魚川での名称は不明だが、糸魚川の古老は熊手の事をエビラと呼んでいるので、本来は熊手状の機具の総称で、訛ってビビラと呼ばれているのかもしれない。

これは裏表に青竹で作った竹べらを表を一尺間隔(約30cm)、裏を六寸間隔(約18cm)に取り付けてあるので、一つのビビラの表で条間の線を描き、裏で株間の線が描ける工夫がしてある。
お手本は近所の農家にあったが、実物を見たのはほんの三分位で、手に持ってバランスや重さの感覚を確認して、後は竹の長さや太さの寸法を測っただけである。
後は重量の軽減やバランスの取り易い工夫を独自にしてみた。
竹の伐採と必要資材の購入時間を入れて、正味8時間程の仕事だ。
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ビビラ
オリジナル品に較べると、かなり軽い上に剛性も高いので、バランスが良くなっている。
幅3mもある。






残念なのは、本来は竹を使用する場合は、竹の伐採を寒の内(12月くらいから2月位)にすべきが、急な依頼だったので、5月に伐採した事である。
春になると竹は水分を吸い上げて、せっかく作っても黴たり、乾燥によって割れたり、最悪なのが虫が入ったりしていて、長持ちしないからだ。・・・経験からすると、虫が入っていた場合は、2年~3年目くらいから竹に孔を開け始める。細かい木屑が竹の下に溜まっていたり、小さい孔が開いたりしていたら、虫食いの証拠だ。こうなったら木酢液や殺虫剤をかけるしかない。・・・
せめてもの対策として、竹の伐採は新月に行なった。
それと伐採した竹は、葉っぱを付けたまま、一週間ほど竹藪に立てかけておいた。
こうする事で木の中の水分を葉っぱから蒸散させて乾燥させる、葉枯しという樵がする技法を応用してみた。

あらゆる植物は、新月には水を地下に下げ、満月に水を吸い上げる、という性質がある為で、この性質を知っていると、種蒔きや接木は満月に行なうと成功率も高くなる・・・らしい。
ちょっと知ったかぶりを書いてしまったが、現代農業の出版元の農文協から出ている「月と農業」に書いてあった。


除草機もビビラも、農園の人達から実物や図面も無しでよく作れるね、と驚いていたが、「何故この形・サイズなのか?」と作者の形に込められた想いを察する事が出来れば、後はその想いの再現と過去の経験からオリジナル品の改良点を見つけ出すだけなので、周りが思う程は難しくない仕事だ。
こういう仕事があるから、農業は面白い。
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by jhomonjin | 2010-06-07 00:10 | ガラクタ工作 | Comments(4)
ちょっと前に俺の身体はあと一週間程度で入梅するぞ、「気分はもう夏!」だと書いたが、このところ新潟は再び湿気が少なくなってきて、また煙草が美味くなってきた。
気象予報が外れても、毎年季節の移ろいが一様ではないところが面白い・・・整体関係者は何でも都合よく解釈する伝統がある・・・。

気象や季節、時間、季節や地球そのもの等に対して、身体感覚が連動している面白い事例がある。

最初は八丈島の和太鼓名人のじいさんの事例だ。

身体教育研究所の鎌倉稽古場では、毎年春と夏に整体の稽古の一環として和太鼓の稽古会をしている。
和太鼓の講師は、自由の森学園のM先生だ。
M先生は、学園の授業で教える関係上、日本各地の和太鼓や伝統芸能などを習っている。
この和太鼓名人のじいさんはの事は、M先生が八丈島に太鼓を習いにいった時の話しで、俺は直接はじいさんに会ってはいない。
M先生はじいさんに和太鼓の教えを請う為に、晩御飯の後にじいさんの自宅に訪ねて行くと、じいさんは既に寝てしまった、という事が何度かあって、中々じいさんには会えなかったらしい。
いくらじいさんが高齢とはいえ、かなり早い時間に寝てしまうので、今度は昼間に訪ねていったそうだ。
そこで「おじいちゃん、夜は何時くらいに寝ているの?」と聞いた時の答えが振るっている。
じいさん曰く「そうさなあ、ヨモギの寝る頃だなあ。」

素晴らしいではないか。じいさんの時間の尺度は、物理的な時間ではなく植物時間だ。
9時のサイレンが鳴ったらとか、水戸黄門を観てから寝る、という誰でも分かる客観的な時間の目安の世界に生きていないのだ。
それなら朝起きるのはどんな時なのだろうか?
鶏が起きる頃、では詰らない。それでは当り前過ぎる。朝顔が欠伸した時とかか?と想像するだけで愉しい。
第一、ヨモギが寝る時という身体感覚とはどんなものなのか?
こればかりは、じいさんと寝起きを共にして、同じ時と場を共有しないと分からない。

次の事例は、時間ではなく方向感覚だ。

羅針盤などの近代航海機具を一切使用せずに外洋を航海する人々が今もいる。
南太平洋のミクロネシアにあるサタワル諸島の男達だ。

一般的に遠洋航海には、羅針盤と海図は最低限必要だ。これらでおおまかな方向だけは分かる。
次いで正確な時計と六分儀があれば、緯度を測る事が出来るので、大航海時代からロラン(無線方向探知機)やレーダーなどの電子計測器が普及する数十年前までは、これらの組合せで航海をしていた。
現代ではGPSや気象レーダー、深度計測のソナー等も小さな漁船やヨットなどにさえも当り前に搭載されている。
サタワル諸島の男達が遠洋航海に使用する舟は、アウトリガーカヌーという全て手作りの丸木舟の一種で、帆走によって水平線の彼方にある島々に自由に行き来している。海上で一昼夜とかの航海も有りだ。
彼らが方向を知る方法は色々あるが、主に星座や波の観察などであり、一般的にその様な航海術はスターナビゲーションと呼ばれている。
彼らは寝ていても舟に当たる波やうねりの感じで、目指す方向を確認出来る位に身体感覚が研ぎ澄まされているらしい。
かってはポリネシアの人々もその技術を持っていたのだが、欧米の植民地となった事で固有の文化を封じられ、言後や風習とともにスターナビゲーションの技術も失われていった。
アメリカ建国200周年(俺の小学生の時だ)の時に、ハワイでは祝賀ムードと共に風前の灯となっていたハワイの伝統文化を復興させようという動きが活発となった。
アメリカ政府により禁じられていたハワイ語や観光目的ではない伝統的なフラの復興、そしてハワイ人の祖先はかってタヒチからカヌーに乗ってやって来た、という海洋民族としてのアイデンティティーの復興として、スターナビゲーションの技術をサタワルの漁民であるマウ・ピアルクをハワイに迎えて習得に励んだのだ。
そして紆余曲折の後、ハワイ人によってポリネシアの伝統的な遠洋航海用の双胴式帆船カヌーを自在に操り、太平洋諸国を自由に行き来する事が出来るようになった。
カヌーの名前はホクレア号。ホクレアとはハワイ上空に輝く星のポリネシア語の希望を意味する言葉で、タヒチからやって来たハワイ人の祖先達は、このホクレアを目指してハワイに到着した、と伝承されている。古代の航海者にとってはまさしく希望の星だ。
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ホクレア号
横浜に寄航した時に、船尾から撮影。
二つの細長い船体を持つカタラマンという形式。伝統的な古代ポリネシア式の遠洋航海用カヌー。
近代航海機具無しで、動力は風力だけで航海している。
船体はFRP製だが、彼らは木造のカヌーも作っている。
これらの舟は、映画「ガイア・シンフォニー」にも登場した。

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ナイノア・トンプソン
ナイノアはホクレア号のナビゲーター。ハワイではハワイ知事より有名な英雄だそうだ。
彼がハワイからタヒチへの航海を成功させる前に、師匠のマウ・ピアルクからハワイの海岸に立ち、タヒチの方角を見て「タヒチが見えるか?」と問われたそうだ。瞑目すると、心にタヒチがリアルに浮かんだそうだ。スターナビゲーションの免許皆伝の瞬間だ。


環太平洋諸国に、欧米文化一辺倒ではなく、古の海洋民族文化を復興させようという運動だ。
彼らはこの運動をカヌー・ルネッサンスと呼んでいる。
4年ほど前にはハワイから日本に寄航した事もある。もちろんスターナビゲーションによってだ。
そのメンバーの中に日本人が二人いて、その内の一人が葉山で「アウトリガーカヌークラブジャパン」というポリネシア式の海洋カヌーによって、海洋文化の普及活動をしているNPO法人代表の荒木汰久治さんだ。
俺は荒木さんの妹さんとは古い友達だ。
スターナビゲーションといっても、曇りや雨天の時に星が見えない時はどうするのか?
荒木さんは「行こうと思う方向に赤い道が見えるんですヨ。」と答えていた。
出航の時に時化ていて、周囲の人々が今日の出航は無理だろうと思っていても、道が開けていく感じがあれば出航するのだという。
彼はまだ30代なのに、凄い体験を沢山している。
詳細は荒木さんの著書PHP研究所出版「ウォーターマンへの道」に譲るとして、和太鼓の名人じいさんといい、荒木さんといい、社会的な約束事の範囲で生きるのではなく、植物や地球と身体感覚が見事に一致している処が素晴らしいと思う。


北海道にも縄文遺跡があるが、以前は本州の縄文人とは行き来が無かったであろう、という説が罷り通っていた。
根拠として、縄文時代の丸木舟では、名だたる海の難所である宗谷海峡は横断不可能であり、現に戦後しばらくして青函連絡船の洞爺丸が沈没した事件があったではないか!というのだ。
洞爺丸は3千9百トンの貨客船で、沈没による犠牲者は千人程の大惨事であったらしい。
しかし洞爺丸は、台風の真っ只中に出航して沈没しているのだ。
洞爺丸は身体時間、身体感覚とは無縁の物理的で社会的な約束事の範囲で出航して、そして沈没したのだ。
縄文人なら台風の真っ只中に出航する様な事は無かっただろう。
「今なら大丈夫。海峡を横断できる!」という皮膚感覚があったに違い無い。
時計の時間や人間の都合では無く、文字通り「潮時」を観て行動の判断基準としていたのだと思う。
海峡を渡れる時にしか渡らないので、こっちの方が安全である事は確かだろう。

伊豆諸島の式根島の黒曜石が、関東を中心とした本土の縄文遺跡から多数出土している。
この事は、最大で時速4ノット(1ノットは時速1.852k/t。4ノットは約時速7.4k/t)で北上する黒潮を物ともせずに航海する技術が縄文時代にはあった、という事を証明している。
いくら式根島が伊豆半島から見えているとはいえ、黒潮は幅80キロ~100キロもある世界最大級の海流であり、その横断は手漕ぎでは不可能だ。帆走技術を確立していたのは間違い事実だろう。
縄文時代の中期以降には、八丈島にまで航海していたらしい。
黒潮の流れも時には強弱があり、時には蛇行もするので、黒潮の海を航海していた縄文人は、北海道に行き来した縄文人と同じく、何がしかの身体感覚を駆使した航海技術があったのだろう。

八丈島の和太鼓名人のじいさんも、荒木さんも縄文人だなあ、と俺は尊敬する。
21世紀にそんな日本人が、あまり知られる事もなく普通に存在している事に嬉しくなる。
国家という概念も無く、物理的な約束事などに縛られず、身体感覚や身体技術を駆使して生きていた縄文人達に、俺は憧れを抱いている。
何故か子供の頃から縄文文化に惹かれ続けているのは、そんな処からだろう。
窮屈な現代社会の約束事や枠組みに、風穴を開ける爽快感を感じるのだ。

俺が整体を学び始めたのも自然農法を始めたのも、縄文人が宿していた古代の身体感覚を身に付けたいからだ。整体や自然農法に縄文の匂いを感じたのだ。
人から何故整体を学び始めたのか?とよく質問されるのだけど、整体を学ぶのは縄文人になる為、と答えて笑われるのだが、これは冗談ではなく本気なのだ。
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by jhomonjin | 2010-06-05 00:51 | 身体感覚・身体文化 | Comments(5)