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21世紀の縄文人を目指す男の記録


by jhomonjin
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俺が過去に作った事のある石器は、黒曜石の鏃(ヤジリと読むのだよ、シンタロー君)だけだ。
黒曜石で鏃を作る場合には、最初に黒曜石の塊を鹿の角の根元や哺乳類の大腿骨などをハンマーとして大割する。
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黒曜石の鏃
藤沢市出土の本物。青空古道具市で一個500円で買った。この元の持ち主は考古学好きで、中学の頃に趣味で発掘して集めた土器や鏃が、本人が亡くなってから遺族が古道具屋に大量に持ち込んだそうだ。

黒曜石は脆いガラス質で注意しないと砕け散ってしまうので、ただ闇雲に叩けばよいというのではなく、欲しい大きさと形になるように石の目を読んで注意深く割る。
その後は割れた黒曜石の欠片から、鏃に作り易そうな大きさの破片を選んで、鹿の角の先端を押し付けながらペキペキと割って成形して完成させる。
慣れると意外なほどに短時間で完成する。

石器には大別して、旧石器時代からあった打製石器と、新石器時代から出現する磨製石器がある。
但し、この時代区分は西洋の考古学の歴史区分を日本に当てはめればという事であって、実際の日本の旧石器時代には、刃先だけを磨製にした石器が存在している。
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本物の石器
これも古道具市で買った本物で上が磨製石器、下が打製石器。磨製石器は3,000円で買ったが、安いか高いかは賛否両論だ。上の磨製石斧は形状からしてノミだったらしい。


黒曜石は打製石器の仲間だが、弓矢つまり黒曜石の鏃が登場するのは新石器時代からだ。
日本の場合は、縄文時代イコール新石器時代と区分されている。
俗に縄文三点セットといって、発掘遺跡から縄文土器と磨製石器、竪穴住居が確認できれば縄文時代の遺跡だと断定できるのだそうだ。

打製石器はただ割って成形していくだけなので、石の割れ方の癖さえ掴んでしまえば、短時間で完成出来る。
俺は石には詳しくないけど、実物の打製石器を観察すると堆積岩が使用されているようだ。
堆積した石なので、割り易いからだろう。
「始めにんげんギャートルズ」という俺が一番好きだったアニメーションがあって、石斧でマンモスと戦う場面がよく出てきた。
旧石器時代なら打製石器で狩りなどをしたかもしれないが、縄文時代には大形獣が激減した時代で、打製石器はもっぱら鍬やスコップなどの農耕器具や土工用具だったのではないかと推測されている。
確かに打製石器は薄くて脆そうな印象があり、持ってみると意外にも軽い。

では磨製石器の用途は何かというと、なんと木工用だと推測されている。
磨製石斧で樹を切り倒し、木材を加工する技術が発展した。

前期(七千年前~六千年前)以降には、内丸ノミ型の磨製石器が出土するようになる。
この石器は、材木の内側を削っていく用途に適している。
この石器の発明により、ただの丸木舟から刳り舟に造船技術が進歩した。
刳り舟とはカヌーの事だ。
舟の安定性と積載性、凌波性能の向上は、外洋航海を可能にした事を意味する。

中期(五千年前~四千年前)の遺跡では、石ノミでホゾ孔を開けて「貫構造」や「渡り蟻継ぎ」という高度な継手まで駆使して、家屋などの構造物を作っていた事が確認されている。

木を刳り抜いて器を作る「刳り物」も出現した。
新潟県内の縄文遺跡では、液体を注ぐ用途らしい、取っ手付きの注口器が製作途中の物から完成品まで出土しているので、職人さんの様に職分化が進んでいた可能性も匂わせている。

ヒノキを竹ヒゴのように細く薄く加工して、籠を編んだ上に漆を塗った「籃胎漆器」も存在した。
籃胎漆器は防水性のある軽い籠であり、今でもラオスの田舎では日曜雑貨として使用されている。
この時代には漆が接着剤や防水材料といった実用面以外にも、木工品や土器に装飾として使われている。
黒地に赤の模様を持つ、漆塗りの櫛まで出土しているのだ。

木工用の道具を持つ事で、技術が飛躍的な進歩を見せ、暮らし向きは安定した。
縄文時代は世界初の土器文化とされ、土器による食生活の向上にスポットが当てられ勝ちなのだけど、磨製石器を自分で作りを始めると、縄文時代は実は「木工の時代」でもあったのだなあ、と気が付く。
初めて自転車に乗れた時、初めて自分のバイクや自動車を手に入れた時に感じた、「世界が広くなった感じ」を、磨製石器を手に入れた縄文人も感じたのではないだろうか。

縄文クッキーを作るには、石のひき臼でドングリを粉にする必要がある。
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縄文時代の石臼
長者ケ原遺跡出土の石臼で、現代人からみると臼というよりは擂り鉢に近い。砂岩製で上面が綺麗に凹まされている。
拳大の丸石も大量に出土しているので、ドングリなんかを潰していたと推測されている。

この手の臼は今でもインドで日常的に使用されている。
インド人は、こいつでカレーのスパイスを作るのだ。
石臼は平べったい砂岩を窪めた形状になっている。
石臼とセットで、丸い石も大量に出土しているので、この窪みにドングリを入れて、丸石でスリ潰していたらしい。
鉱物マニアには聖地のように思っている奴がいる程の姫川といえども、河原を探して歩いても平べったくて中央が窪んだ砂岩が拾える可能性は、当然ながら低い。
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翡翠
三内丸山出土の翡翠大珠レプリカ。縄文時代から奈良時代初期までの国内の遺跡から出土する翡翠は全て糸魚川産。そんな事から糸魚川を聖地だと思っている鉱物マニアが本当にいる。この話しは面白いので後日!

どうせ磨製石器を作るのに砂岩の砥石が必要となるから、平らな砂岩を砥石として使い続ければ、その内に削れて凹みが出来て石臼も同時に作れるだろう、と一石二鳥の作戦を取る事にした。
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by jhomonjin | 2010-10-24 23:04 | 縄文 | Comments(0)
秋の味覚の代表というとまず新米だろう。それからキノコや栗、柿、梨なんか連想する。
縄文人の秋の味覚の代表ならキノコ、栗は同じだろうが、胡桃やドングリなどの堅果類は絶対に外せないだろう。
21世紀の縄文人を目指す俺としては当然、縄文料理は避けて通れない。
縄文クッキーを作るのだ。

縄文クッキーと通称される遺物は、正式にはクッキー状炭化物という。
縄文クッキーは、狩りの時の携行食だとか冬の保存食などではないかと推定されている。
以前はその分析結果から栗、ドングリ、胡桃などの木の実の粉末と、山鳥の卵、山芋、肉や骨、骨髄などのミンチを混ぜて焼いたクッキー、またはハンバーグ、またはお焼き状の食い物と推定され、縄文関連の本などでよく紹介されていた。
その後、報告論文の分析方法が疑問視されて、考古学的には縄文クッキーの成分や製作方法などが白紙に戻っているようだが、依然としてワークショップで作られ続けている。

遺物ではドングリや胡桃、栗の残滓も大量に発掘されて状況証拠は揃っているので、縄文クッキーの存在は確かだ。
学者じゃないので難しく考えずに縄文クッキーを作って見る事にした。
小麦が日本に渡って来る以前からあった、おやきの一種だと思ったほうが自然ではないだろうか。
内容物や製法も地方や季節によって違っていただろうし、お袋の味や故郷の味という具合に各家庭や集落毎に違いもあったろうと思う。

例えば納豆の食い方だ。
西日本の人には納豆嫌いが多いが、東日本には納豆好きが多いという地域差がまずある。
食い方で一般的なのが、納豆を器に入れて攪拌、醤油投入、さらに攪拌、各自のご飯茶碗に適量を取り分けるという四段階方式だろう。
横着にも器に納豆を入れる手間を省いて、納豆の入っていた発泡スチロール容器の中で攪拌以下の作業をするのが三段階方式。家族が少人数だとこの方式を採用している家も多いのではないだろうか。
豪快なのが、炊飯器の飯の上に大胆にも納豆をガバッと入れて、しゃもじで攪拌、醤油投入、さらに攪拌、各自のご飯茶碗に納豆ご飯をよそうという変形四段階方式だ。
東北地方では納豆に砂糖を入れる人もいる。少量の砂糖混入で泡立ちが良くなるのだそうだ。
卵を混ぜるのが好きな人、醤油だけのプレーン味で勝負する人、中には切干大根や若布、ゴマなんかも入れる人がいる。
薬味も長ネギ派、ワケギ派などなど。浅草の友人は七味唐辛子を必ず入れる。
納豆ひとつでもこんなに食い方が違うのだ。
まだ逢った事ないけど、醤油代わりに納豆にマヨネーズを投入している人だっているかもしれない。

縄文時代は一万年以上も続いていたから、縄文クッキーのバリエーションだって相当あったのではないだろうか。
だから雑穀も入れてみようと思う。
乾し葡萄や乾しイチジクなんかで甘味を付けてもいけるのではないか?
ヨモギやハッカ、シソで香り付けなんかどうだ?と考え出すと愉しくて止まらなくなってしまう。
因みに、整体の師匠であるダン先生は講義で、「考える」の古語はカム・ムカエルで、神迎えるなんだと仰っていた。
本来の「考える」とは、神様を迎え入れることだなんて面白いではないか。
古代人にとって閃きや妙案だったりは、神様が降臨したという事で個人の所有物ではない、という事になるのか?

ドングリなら都会でも公園で拾って歩いている人がいる。
深夜の世田谷付近の環八の歩道で、何か拾っているオバサンがいたので聞いてみたら、街路樹の銀杏との事だった。
オバサン曰く、昼間だと怪しまれるからとの事だったが、真夜中の方が怪しいぞオバサン。

糸魚川なら長者ケ原遺跡公園に行けば、栗、胡桃、ドングリの樹が生えている。
今年は異常気象だったせいか、ドングリ類が不作のようだ。
そのせいか街外れで熊が多数目撃されている。気の毒な話しだ。
遺跡公園での一番人気は栗らしい。すでに落ちているのはイガばかりだ。

胡桃は栗より食べるまでの手間が掛かるからか、拾う人が少ないらしく、比較的楽に拾える。
しかし大きな胡桃は毎日が日曜日の暇な人達に拾われた後らしく、落ちているのは小さな胡桃ばかりだ。
糸魚川の胡桃は鬼胡桃なので、ただでさえ小粒だから出来るだけ大粒でないと割る時の手間が大変だ。
辺りを見回して人影が無い事を幸いに、胡桃の樹に登って熊の様に揺さぶって胡桃を落とす。
三内丸山のような観光客の多いメジャー遺跡だと、こんな事は許されないだろうなあ・・・と思いつつ、ボトボト落ちる胡桃の音を聞くと満面に笑みがこぼれる。

栗はうまい具合に知人からビニール袋一杯のお裾分けがあった。
ドングリはクヌギとマテバシイがバケツに半分弱は採集できた。
胡桃は外皮を除けばバケツに一杯はあるだろう。

胡桃は水に漬けて外皮を腐らせる。
ドングリは水に浸して、浮いたのは虫食いなので捨てて、沈んだものだけそのまま漬けておいてシブ抜きだ。
本当は清流に浸しておきたいのだが、実家のある糸魚川市内では清流など無く、バケツの水を取り替えて我慢しておく。
栗は茹でてから、数珠玉のように糸で繋いで乾燥させて勝栗にする。

数週間後には乾燥させて粉にするのだ。
粉にするには砂岩製のひき臼が必要だ。
次回(その2)では、ひき臼の製作を紹介する予定ですわ。
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by jhomonjin | 2010-10-17 23:53 | 縄文 | Comments(4)
吉田さんと逢った翌々日、晴れたので朝から遺跡に行ってみたら吉田さんがいた。
お手伝い出来る事がありますか?と聞くと、最初は「ええわね」と遠慮していた吉田さんも、色んな事を話込むうちに、足場の仮設や梁返しなどの手元(助手という意味の現場用語)をさせて貰う事になった。

この仕事の足場は独特だ。
現在の建築現場だと足場は単管足場という鉄パイプ製や、ビケ足場という鋼製組み立て式などが一般的だ。
しかし茅葺職人の足場には、杉丸太を藁縄で縛る伝統的な足場が残されている。
単管にしろビケにしろ、足場を組むのに最低四本の柱部材を必要とする。
ところが茅葺職人の足場では、最低二本で済んでしまうのだ。
ドキュメンタリー映画「芸州かやぶき紀行」で足場を組むシーンを見て興味を覚え、実際に自分で組んでみたいと思っていたが、やっと念願がかなった。
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丸太足場
手前の二本柱だけ地面に打った杭に固定してある。次いで横に丸太を渡し、斜めに立てかけた丸太に梁丸太を柱から渡して固定する。
地面のデコボコや高低差も簡単に調整できるスグレモノ。

最初の手元仕事は足場作りだ。
この足場は実に上手く考えられている。
吉田さんと組んだのは高さ2m強、幅4m程の足場だったが、確かに二本の柱しか使わずに、横から押してもびくともしない程にがっしりと組めた。
丸太の結束方法は稲架と基本的には同じだが、驚くべきは最後の結束方法が稲を「丸ける」方法と同じで、ザク縄を一回転捻って差し込むだけの簡単なロープワークである事だった。
それでも単管足場よりしっかりとしている。
しかも仮設で20分程、解体に5分程しか掛からなかったし、人数が一人でも可能な作業だ。
実際にやってみると、こちらの方が単管足場よりも現場合わせがしやすい事も分かった。
地面にデコボコや高低差があるとビケ足場ではお手上げだが、丸太足場なら現状地盤のままに自在に足場が組んでいけるのだ。
単管でも調整は可能だが、手間が掛かるし、人数だっって二人は欲しいところだ。
多分、縄文時代にもこんな足場があったんだと思う。
ちなみにかってのインドや中国では、高層ビルでも竹製の足場が見事に組まれていたが、最近は日本と同じ単管足場が増えてきたようで、面白くなくなってきた。
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仕上げ
仕上げは茅切り鋏で整える。吉田さんの悩みのがこの鋏の予備が無い事。近隣では入手不可能となったと相談されたので、心当たりに相談してみたが、どなたかこの鋏を持っている方、買わせて頂きますのでご連絡の程を!

足場が完成した後は、足場の上にいる吉田さんに、必要と思われる道具や資材を手元に置いて、すぐ渡せる用意をしておいた。これは手元として当然の心得だ。
吉田さんもハサミ取ってくんない、縄取ってくんない、と声を掛けるやいなや「アイヨッ!」と返事と共にすぐに手渡れるので、俺の手元振りに気を許してくれたようだ。
段々と高度な仕事をさせてくれるようになった。
いつか田舎暮らしを考えている人は、建築や土木方面の現場仕事でバイトでもして、現場仕事に馴れておく事をお奨めする。
技術の習得は無論だが、現場の空気感を知っていると先が読めるのだ。

やって見たかった技術で、梁返しもさせて貰った。
これは茅束を結束して固定する技術で、表にいる親方が刺し金という長さ約80cm、直径2cm弱の鉄製の針に結束縄を取付けて茅に突き刺し込み、家の内側にいる手元が結束縄を外し、梁を跨いで再び差し込まれた刺し金に結束縄を取付けて茅束を縫い込んでいくのである。
本来の茅葺屋根にはもっと長い刺し金を使うそうだが、遺跡の場合には予算の都合と、あまり立派に修復しては雰囲気が出ないとの市教育委員会の意向で、薄くしか茅が葺けないから短めの刺し金を使っているのだそうだ。
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吉田さんの手
茅葺人生六十年以上の男の手だ。爪は度重なる霜焼け、ひび割れで厚くカサブタの様に変色、変形している。男の顔は履歴書というけれど、こんな手こそ人生を雄弁に物語っている。

今回の修復は一週間くらいとの事で、次回の来年までは修復の手伝いは出来ないが、来年は俺も自由業だから、もっと手伝う積もりだ。
しかも来年は能生の白山神社の屋根の修復も予定されているそうだ。
こっちはでっかくて、茅の厚みも三尺(90cm)を超えるホンモンだ。
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茅葺職人の風貌
茅葺の仕事は、夏は直射日光の下、冬は寒風吹きさらしの中で、茅でチクチク肌を刺されながらの辛い仕事だが、大工よりは日当が良かったらしい。
新潟の場合は真冬は仕事が出来ないので、出稼ぎに行く。どこに出稼ぎにいっても辛抱強くて実直な越後人は歓迎されたらしい。
越後杜氏なんかその代表だろう。最後は吉田さんのアップで締めくくろうと思う。
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by jhomonjin | 2010-10-12 00:00 | 縄文 | Comments(14)
縄文時代の関連本ならどの本にも必ず出てくる糸魚川の遺跡がある。
長者ケ原遺跡と寺地遺跡である。
前者は中期(5,000年~4,000年前)、後者は後期(4,000年~3,000年前)の翡翠の工房を持つ縄文遺跡で、それぞれ国指定重要遺跡になっている。
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長者ケ原遺跡
巨大な火焔土器が遺跡の目印だ。
火焔土器の本場は信濃川流域の中越地方だ。本場モンは国宝に指定されていて、豪快でデザイン的にも優れているが、糸魚川の火焔土器はちょっと野暮ったくて地味目だ。

糸魚川に産する翡翠は、縄文時代前期(7,000年前)くらいから宝玉として加工されてきたが、これは翡翠を珍重する文化としては世界最古だ。
中国文化圏でも翡翠は珍重されるが、名前は同じ翡翠でも中国文化圏の翡翠は鉱物的には別物の軟玉で、日本の翡翠と異なり加工し易いらしい。
しかし日本の翡翠は硬玉であり、ダイヤモンドに次ぐ硬度を持っているので加工は簡単ではない。
時代的にも縄文の翡翠文化の方がかなり古い。
加工の困難な硬玉翡翠を珍重してきた文化は日本の他にインカ帝国らしいが、こちらも何世紀も後の文化だ。
その翡翠の工房を持つ世界最古の遺跡が長者ケ原遺跡だ。

後輩のM君からのメールで、長者ケ原遺跡の復元竪穴住居の茅葺屋根を補修するので、職人さんが来るらしいと情報があったので行ってみた。
長者ケ原は実家から車で10分足らずの距離にある。
この遺跡は日本海を見渡せる丘陵の美山公園の一部にあり、遺跡自体は全体の二割程しか発掘が済んでいない「宝の山」なのだ。

遺跡周辺は雑木林に囲まれていて、今の季節だと遺跡公園のいたる所に栗や胡桃、ドングリが落ちている。
拾った棒っ切れで下草を除きながら、散歩がてらビニール袋を持って胡桃を拾っている地元の人達も多い。
糸魚川ではハレの日のご馳走が笹の押し寿司で、具には胡桃が欠かせないのだ。
俺も今日は三十分足らずでスーパーの大形ビニール袋に山盛りの鬼胡桃を拾った。
今年の冬はこいつで縄文クッキーを作ってみたい。
遺跡には湧き水もあって展望が非常に良い。
つまり縄文人が好んで住む環境が整っているのだ。

この遺跡は住居跡が広場を囲むように円形に配置されている。
関東から北陸にかけてみられる典型的な中期の集落形態で、円形集落と呼ばれている。
この事から当時は身分階級や貧富の差など無い、平等なムラ社会であったろうと推測されている。

広場の中央には墓が集中しており、縄文人たちは生活の中心で祖霊を祀り、死者と共に暮らしていた事が分かる。
住居に囲まれた広場に墓場があるというと、ちょっと現代では考えられないが、死の捉え方が現代とはかなり違ったのだろう。
死者と共に暮らすなんて、捉えようによっては愉しそうだ。
死への恐怖や、孤独死なんて縄文人には無縁だったかも知れない。
生と死が対極的ではなく、混然一体となった世界観だったのではないだろうか。
そのせいか、感覚の鋭敏な人をこの遺跡に連れていくと、この地が何かとても優しい雰囲気に包まれている、と口々に言う。
カズさん一家もそうだったし、甲野善紀先生の奥さんもそうだった。
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集落の広場
手前に並んでいる立石が墓石。
広場では祭祀が行なわれていたと推測されている。雑木林の向こうには、日本海が開けている。




昼近くに遺跡に着くと、ちょうど茅葺職人さんが軽トラックに茅を満載して竪穴住居の処にやって来るところだった。
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吉田さん登場
現場に着いて辺りを見回したら、軽トラックがやって来る所だった。
こんな時の俺は、いつも絶妙のタイミングで現場にいるのだ。




茅を荷降ろしする手伝いをしながら、色々話を聞いた。
職人さんは市内の能生谷(ノウダニ)の吉田さんといって、糸魚川最後の茅葺職人だそうだ。
御歳78との事だが、耳がやや遠いのを除けば達者で快活なお年寄りだ。

茅葺に使う資材は一抱え幾らと決めて、能生谷の年寄り衆に十一月下旬から十二月に河原や休耕田に生えている茅を刈り取って貰っている事、茅は一冬越せば春には乾いて使用できる事・・・温暖な東南アジアでは、刈り取った茅を日干ししてから使用する・・・、竪穴住居の茅は本当は全部葺き替えた方が綺麗に仕上がり仕事も楽なのだが、市では予算の都合で部分補修しかさせて貰えず、満足な仕事が出来ない事など色々と聞かせて貰った。
チャンスがあれば是非お手伝いさせて下さい、と頼んで他の仕事で戻る田中さんと別れた。
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現調する吉田さん
本当は全部一時に直せりゃいいんだけんさ、市のしょう(衆)は予算ないそいね、毎年少しずつ直してくんないて言うんだわね、とお役所仕事に不満気味のようだった。でも優しくて気さくなお年寄りですよう。

広島の茅葺職人さんを記録した「芸州かやぶき紀行」というドキュメンタリー映画で、老茅葺職人に弟子入りした外国人や若者が修行するシーンがあったが、この職業も絶滅危惧種になった。
現在では茅葺屋根を葺き直すより、トタンを被せてしまう家が多い。
茅葺技術の伝承は、職人さんの頭数が問題になる以前に、茅が生えている河原がコンクリートで覆われてしまったり、きちんと修復すると五十年は持つ技術に対して、減価償却や市場原理といった経済理論優先の施主が茅葺屋根を敬遠させている、という現状が問題だ。
若い世代がこの技術に興味を持っても、茅葺職人では食っていけない現実があるのだ。
続きは次回!
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by jhomonjin | 2010-10-10 00:33 | 縄文 | Comments(4)
前回投稿の美術部OB展の打上げで、聞き捨てなら無い事を耳にして、腹を立てている。
現在、糸魚川高校には正式の美術教師がおらず、非常勤教師が美術の授業を受け持っていて、自動的に美術部顧問になっている。

最近の新潟の県立高校は、美術教育に関して予算が削減傾向になっていて、正規の新任美術教師を雇えないらしいのだ。
あろうことか長老OBの重鎮である、市内で自転車屋をしているI社長にまで美術の非常勤職員になって貰えないか?と打診があったらしい。
気骨のあるI社長の事、依頼してきた校長に向かって「自転車屋のオヤジに高校の美術教育を任せようという事とはどういった料簡かっ!」と啖呵を切ったらしい。

実際に非常勤美術教師をしている後輩のIちゃんによると、最近の高校美術部員に絵を描かせるとイラストや風景写真の模写ばかりが多く、表現が画一的でレベル自体も相当に低いらしい。
美術部員のくせに、美術部の備品として油絵の具を用意するなら油絵を描いてもよいが、油絵の具を自分で購入するくらいなら描かないとまで言うのそうだ。
俺たちの高校時代の美術部員に較べて、熱意もそうだが技術の差が格段に低くなっているのだという。

俺の高校の頃は、海の家で監視員のバイトをして買ったプルシャンブルー、マリンブルー、コバルトブルー、エメラルドグリーンを使って、喜び勇んで海の絵を描きまくった夏の終わりの思い出や、展覧会に来た観客に俺の絵を売って欲しいと言われ、絵の具の購入代金欲しさに泣く泣く売った荒海の絵など、今思い出すと胸が熱くなる思い出が油絵の具には沢山ある。
油絵の具の匂いを嗅ぐだけで、高校生時代の一瞬の記憶が鮮烈に甦ってくる。

OB展にも現役高校美術部の出展があったが、確かにそれらの作品は、深みのない平面的な表現しか感じないものが多かった。つまり薄っぺらなのだ。
あるOBなどは、ここまで高校美術部のレベルが落ちたか!と打上げの席で何度も嘆いていた。
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うりかわ蓑
移住予定の小滝公民館に展示されていた蓑で、瓜皮蓑と漢字表記するらしい。瓜皮の樹という樹木の樹皮を剥いで作った昔のレインコートで、縄文時代にもあったと思う。
まだ作れる老人が生きているそうなので、小滝に移住したらプロジェクトの一環として先生になって貰って復活させたい。雪かきや梅雨時の農作業時には蒸れなくて長宝しそうだ。手技文化の復興である。

美術の先生というと、一風変わった個性的な人が多かった。
人間臭くて、反体制的な危険な匂いと、洒脱な雰囲気をあわせ持った魅力的な大人のイメージだ。
そういった個性的な先生もいなくなっていくんだろう。
そんな教師とは、生涯に渡って交流があったりする。
OB展に出品した長老達にも、かっての教え子が会場に来て挨拶していたし、出展した他のOB達も二代続いて長老OBの教え子だったりする。

絵を描くことの愉しさ、創造する喜びを何故学校で教えないのか?
表現する欲求を導き出し、絵画や造形で表現する能力を育成出来る指導者が不在のままで良いのか?
何かおかしいぞ、日本の教育!
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by jhomonjin | 2010-10-09 23:28 | 姫川流域交流こどもプロジェクト | Comments(2)
俺の人となりや外見は、バリバリの体育会系に見られるのだけど、高校時代は美術部で油絵を真面目に描いていた。
確かに剣道やボクシングもやっていたし、社会人になってからはマリンスポーツやアウトドア遊びばかりしてきたので、体育会系に見られても仕方ないし、落語好きで学生時代はアメ横で魚屋のバイトをしていたので、普段の言葉使いも江戸っ子風のべらんめえ口調だからなおさらだ。

しかし本当の俺は繊細で相当な恥かしがりやさんだ。
自分で自分の事を恥かしがりやさん、というから間違い無い筈だが、世間ではそうは受取らないらしい。困ったもんだ。
なんか照れ臭いから、照れ隠しに強気な態度を取ったりするのだが、どうも世間一般の人はそれを真っ正直に受取ってしまうのだな。
そういう真っ正直な受取り方をする人を、シャレの解らん奴という。
落語でも聴いて、もっとシャレの解る人が増えて欲しいもんだ。
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山田コーナー
最初は陶芸部門に設置する予定だったが、配置係りのA子ちゃんがキワモノ扱いして階段横の空スペースに設置される羽目になった。後輩といえども女は強い。黙って従った事でも俺のナイーブさが証明されようというもの。

糸魚川高校美術部OBには、県の美術界の大御所もいて、戦後しばらくは糸魚川高校美術部OB主導による「視展」という美術展が精力的に行なわれていた。
その関係から、県内出身で後に国際的な名声を得た美術家も輩出してきた歴史があるらしい。
その歴史あるOB美術展が、いつしか行政主導の「市展」という形態になり、市内在住の美術愛好家に門戸を開いた事から、次第に求心力が失われてきたらしいのである。
平たく言えば、趣味レベルのアマチュア画家が大量に美術展に作品を出品し始めてからレベルが下がったのだ。
あるらしい、とは今日そのOBによる美術展があって、打上げに参加したOBから聞いた話しだからなのだ。
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縄文土器
本物みたいですね、と後輩のミヤタが言った。都内で美術教師をやっている1年後輩だ。おい、デブになったな。貫禄ですよってか!
先輩後輩の仲は、いくつになっても変わらないのが嬉しい。

俺の四歳下の美術部OBのひとりで、長老格と親交のあるミツル君がその事に危惧を抱いて、「糸美展」としてOB展を復活させたのが3年前だ。
そして第二回目の美術展が今週の土日にあった。
参加者は約30名。最年長85歳から最年少16歳までのOB,OG、現役美術部員達だ。
会場設営の準備段階から、全員が高校生に戻って和気あいあいと愉しい雰囲気だった。
歳がうんと離れていても、先輩後輩の関係がそのままなのがおかしい。

勿論、俺も縄文土器と手作り民族楽器を出展した。
来場者には、民族楽器で自由に遊んで貰ったので、特に親子連れに喜んでもらったようだ。
俺の出展作品が果たして、美術として位置づけされるかどうかは疑問だが、静かに鑑賞するだけの通常の美術展には無い、美術に親しみを抱いて貰う役割は果たせたようだ。
参加したOBで、県内美術界の大御所から「おまん・・・あなた、という意味の糸魚川方言・・・の作品が一番個性的だったわ。」と捉えようによっては厭味にも聞こえる褒め言葉を頂いたので、取敢えずはウケた事は確かだ。

土器もそうだが、民族楽器を作るには、技術の他にその楽器の持つ本来の意味や、文化的背景を理解する必要がある。
民族楽器作りをするという事は、刃物を取り扱う技術(技術家庭科)、木の性質を識る事(理科)、楽器の扱い方(音楽)、楽器の持つ意味(歴史・民族学・民俗学)など様々な分野を学ぶ、という事になるのだ。
楽器に彩色する場合にも、岩絵の具を使って、古代人の色彩感覚や絵の具の歴史、美術的センスも学ばなくてはいけないのだ。
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民族楽器
自由に手にとって遊んで下さい、という事にした。
自分でも作ってみたい人は、関根秀樹先生の本を購入して下さいな。





ところが学校の音楽教育では、音階理論からスタートしてしまうので、本来は楽しいはずの音楽を苦痛に感じる子供を大量に作ってしまうのではないだろうか。
少なくても俺には音楽理論が難解だったし、小二の時に変声期に入ってしまい、ガラガラのハスキーボイスしか出なかったので音楽の時間が苦手だった。
体育や美術教育も然り。
最初に理論ありき、ではなく愉しさがないと子供は興味を持たないだろう。

俺は今後、こんな事を通して学校のカリキュラムでは学べない、分野横断的で総合的な教育プログラムを学べる場を作っていきたい。
この夏から「姫川流域交流こどもプロジェクト」を仲間とスタートさせたが、来年から本格的にこんな事を実践していくつもりだ。
縄文土器作り、石器作り、縄文絵の具作り、縄文料理、民族楽器作り、木工、薪割り、焚火、自然農法、郷土料理作り、雪国の生活体験教室、海の遊びと牡蠣やサザエ獲り教室、山菜採りとその加工などなど、実行していきたいプログラムが山ほどある。
そんな体験をしてみたい人達を各地から誘致して、これから移住を計画している小滝という翡翠の原産地である限界集落を賑やかにしていきたいのだ。

みなさん、ぜひ遊びにお出で!
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by jhomonjin | 2010-10-03 23:52 | 姫川流域交流こどもプロジェクト | Comments(3)
京都稽古会で定宿にしているボーダーに泊まった。
今回のボーダーでの雑魚寝仲間は、歩いて世界各地を旅している児玉文暁(ふみさん)さんとパートナーのあゆみさん。
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ふみさんとあゆみさん
旅先でバイトの他スライドショウなんかもして、旅費の足しにしているそうだ。
二人は北海道でスライドショウをした時に出逢ったそうだ。
そんな縁が出来るのも、彼らの人徳だろう。

七月に出逢った原付で日本一周している藤原さんとは長年の旅仲間だそうだ。
数日前に彼らの旅がNHKの全国版で紹介された縁で、旅先で乾し椎茸や野菜を大量に貰ったそうで、ダシのたっぷり利いた野菜スープをお裾分けして貰って旅の話しで盛り上がる。
二人ともブログをしているので、興味ある人はふみさんの「歩き人」と、あゆみさんの「ただ歩いてゆく旅」をご覧下さい。

ふみさんはゴルフカート、あゆみさんは乳母車で共に三輪車タイプのキャリアーに旅の荷物を積んで徒歩旅を続けており、縁があれば居候したり、住込みでバイトしながら金を稼いでいるそうだ。
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キャリアー
リアカーの方が積載量が多いでしょう?と聞くと、三輪車タイプだと狭い国内の道路でも取り回しが良く、手放しでも自立するので便利だそうだ。確かにリアカーはデカイし持ってないと自立しないから不便な点が多いのだろう。

これから南下しながら冬を暖かい地方で過ごし、台湾が今回の最終目的地だそうだが、旅先では基本的に自炊なので、国の内外どこに行っても地方料理、名物料理には縁がないそうだ。
俺なんかの場合は、国内でも随分と食べ物の地方色があるので、旅先では定食屋を探して未知のメニューを注文して好奇心喰いする事を楽しみにしている。
例えば味噌や醤油といった調味料は勿論だが、カツ丼なんかも地方色が結構あるのだ。

今回の帰路も真夜中に高速を走ったが、途中サービスエリアで休憩していた時に、川越ナンバーのトラック運ちゃんが遠慮がちに声を掛けてきた。
俺のバイクのテールランプの玉が切れていて、後ろから見ると俺が黒尽くめのバイクウエアーを着ている事もあって視認性が悪くて危険だよ、と教えてくれた。
運ちゃんはその事を教えたくて、かなりな距離を後を追いかけて俺が休憩するタイミングを見計らっていたらしい。
俺もぴったりと後ろを走ってくるトラックに気が付いて、不審に思っていたのだ。
バイク好きだそうで、煙草を呑みながらしばしバイク談義。
真夜中の運転で孤独だったんだろう、話が弾んでトラック業界の裏話など色々教えてもらった。
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by jhomonjin | 2010-10-01 16:41 | 旅先にて | Comments(0)